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  • 足利直義のサムネイル
    足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将・公卿・政治家・歌人。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男。兄に足利高義と足利尊氏がいる。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。養子に直冬。 元弘の乱で兄の尊氏に従って北条氏から離反し、後醍醐天皇や兄と共に鎌倉幕府を滅ぼした。…
    37キロバイト (5,713 語) - 2024年9月23日 (月) 06:21
  • 後村上天皇のサムネイル
    直義が南朝に降伏し、翌年(1351年)10月には尊氏が同じく南朝に降伏した(正平一統)。天皇は尊氏に対して直義・直冬追討の綸旨を与え、11月には北朝崇光天皇を廃位するとともに三種の神器(後醍醐天皇は偽器と主張していた)を接収し、皇太子直仁親王も廃太子とした。 南朝は、尊氏が直義
    22キロバイト (3,187 語) - 2024年9月1日 (日) 13:09
  • 南北朝時代 (日本)のサムネイル
    村上天皇ら南朝一行は賀名生(奈良県五條市)へ逃れ、衰勢は覆い隠せなくなる。 その後、尊氏が政務を任せていた弟の足利直義と足利家の執事である高師直との対立が表面化し、観応年間には観応の擾乱とよばれる幕府の内紛が起こる。政争に敗れた直義は南朝に帰順し、尊氏の子で直義
    63キロバイト (7,956 語) - 2024年10月29日 (火) 16:58
  • 南朝 (日本)のサムネイル
    直義が対立し、やがて全国的な争乱に発展する観応の擾乱が起こり、これを契機に南朝は再び勢力を回復する。師直の政治工作で失脚した直義は正平5年/観応元年(1350年)10月、京都を脱出し、師直打倒の兵を募る。北朝は直義討伐の院宣を下し、南朝は直義の帰服に応じる。直義
    17キロバイト (1,949 語) - 2024年11月21日 (木) 12:47
  • 破、勢いに乗じて南朝の本拠地吉野を陥落させ、後村上天皇ら南朝方は吉野の奥の賀名生へ落ち延びた。この結果、政権内で直義の発言力が低下する一方、師直の勢力が増大、両派の対立に一層の拍車がかかった。 そうした中、貞和5年(南朝正平4年、1349年)閏6月、直義は側近の上杉重能や畠山直宗、禅僧大同妙喆らの進…
    41キロバイト (7,052 語) - 2024年11月7日 (木) 18:18
  • 足利尊氏のサムネイル
    正慶2年(元弘3年/1333年)、義良親王(のちの後村上天皇)が陸奥太守に、北畠顕家が鎮守府大将軍に任じられて陸奥国に駐屯することになると、尊氏も、成良親王を上野太守に擁立して直義とともに鎌倉に駐屯させている。また、鎌倉幕府滅亡に大きな戦功をあげながら父に疎まれ不遇…
    94キロバイト (14,952 語) - 2024年11月26日 (火) 09:12
  • 元年(南朝正平5年、1350年) 10月、足利直義が京都を脱出する。足利尊氏・高師直らは足利直冬追討のため九州へ下向する。 11月、直義が師直・師冬討伐を名目に兵を集める。光厳上皇が直義追討の院宣を渙発。 12月、直義が南朝に講和条件を示して帰順する。尊氏が福岡(現在の岡山県瀬戸内市)から引き返す。…
    5キロバイト (492 語) - 2023年8月27日 (日) 17:00
  • 村上天皇らが賀名生(奈良県五條市)に逃れる。 10月、北朝の崇光天皇が即位する。 5年 4月、足利直冬が長門探題に任じられて備後国へ赴く。 8月、高師直の尊氏邸を包囲するクーデターで尊氏が弟の足利直義の執務を停止させ、上杉重能・畠山直宗らを越前国で処刑し、直義は出家する。…
    5キロバイト (343 語) - 2021年3月31日 (水) 21:33
  • 二条師基のサムネイル
    直義を討伐して北朝方の戦力を削減させるべきと主張する。これに対し、師基と北畠親房は受け入れに賛成し、直義派との合同により南北朝間の形勢逆転を図ることを主張した。その結果、後村上天皇は直義の降伏を受け入れ、12月13日に勅免の宣旨を下した。この決定を受けて、南朝方諸将は足利直義
    18キロバイト (2,502 語) - 2022年6月8日 (水) 18:11
  • 信濃村上氏のサムネイル
    信濃村上氏(しなのむらかみし)は、戦国時代の村上義清に代表される河内源氏の庶流村上氏の嫡流を指す。 村上氏の初代から為国までは諸説あり、はっきりとは確定していない。 最初に村上姓を称したのは、『尊卑分脈』では源頼信の孫にあたる源仲宗とされる。しかし、その父・源頼清とする説(信濃村上氏の菩提寺である村上
    29キロバイト (4,696 語) - 2024年7月29日 (月) 06:55
  • 醐天皇の死をきっかけに各地で反乱がおこる。尊氏の弟・直義は高師直と対立。尊氏は師直と組み、直義を失脚させて、幕府の実権を長男の義詮に譲る。直義の養子・直冬が挙兵し、直義とともに尊氏に迫る。直義・直冬軍と尊氏軍の戦いが繰り返され、尊氏は幽閉した直義を毒殺。父の死を聞いた直冬は京に攻め上るが、一色右馬…
    77キロバイト (11,980 語) - 2024年11月28日 (木) 15:39
  • 足利直冬のサムネイル
    足利直冬 (カテゴリ 足利氏 (直義流))
    直義に相談した。直義はその紹介を受けて直冬と面会して引き取ったが、尊氏からは父子としての対面は許されなかった。当時、直義には子が無かったため、直義の養子となり、時期不明だが直義に一字を与えられて直冬と名乗る。『師守記』には康永3年(興国5年/1344年)6月17日条には「今日左兵衛督直義
    29キロバイト (4,884 語) - 2024年9月18日 (水) 11:33
  • 6月、後醍醐天皇が入京し、記録所を復活させるなど建武の新政を開始する。 10月、北畠親房・北畠顕家が義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥国へ向かう。 12月、足利直義が成良親王を奉じて鎌倉へ向かう。 北条氏残党の反乱が活発化する。 日野資朝 北条高時 北条仲時 京極為兼 ※は小の月を示す。…
    5キロバイト (503 語) - 2023年12月29日 (金) 13:36
  • - 塩冶高貞が謀反の疑いありとして足利直義に誅殺される。 暦応4年(延元4年)6月 - 高師冬らが北畠親房の拠る小田城や関城など常陸国内の南朝方の拠点を攻撃する。 12月23日(1342年1月30日) - 足利直義が夢窓疎石に対して、翌年秋に元朝中国へ宋船2艘を渡航させ、交易…
    13キロバイト (1,421 語) - 2023年11月23日 (木) 18:57
  • 2年(1335年) 6月、西園寺公宗の建武政権転覆計画が発覚する。 7月、信濃国で北条時行を中心に北条氏の残党が蜂起する中先代の乱が起こり、鎌倉が攻略される。足利直義が鎌倉脱出の際に護良親王を殺害する。 8月、足利尊氏が征東将軍として時行討伐のために鎌倉へ向かい、そのまま建武政権から離反する。 8月、二条河原の落書…
    7キロバイト (705 語) - 2023年12月11日 (月) 19:49
  • が、背景については諸説紛々として定説はない。 直義の出家後、師直は尊氏嫡子の足利義詮を補佐して幕政の実権を握る。観応元年(1350年)、直義の養子の足利直冬討伐のために師直は尊氏に従って播磨へ出陣するが、この際に直義は京を脱出して宿敵だった南朝(後村上天皇)に降って手を結び、南朝・直冬と連携して師…
    58キロバイト (8,797 語) - 2024年8月3日 (土) 23:15
  • 光厳天皇のサムネイル
    直義の使者より、師直を流罪にするよう奏上されていたという。 直後の8月19日、光厳は両者を政界に復帰させたが、9月に直義は左兵衛督の官職を辞し、貞和5年12月8日に出家した。そして、直義と尊氏の対立が激化するなか、直義が京都を突然出奔して挙兵すると、尊氏の奏上で光厳は直義追討の院宣を発給した。直義は体制を整えるために南朝へ降伏する。…
    181キロバイト (29,641 語) - 2024年11月27日 (水) 02:32
  • 鎌倉府のサムネイル
    後醍醐天皇が建武の新政の一環として、関東統治を目的に皇子・成良親王を鎌倉へ下向させて創設した鎌倉将軍府が起源。実権は幼い親王を奉じた足利直義にあった。観応の擾乱が発生すると、足利尊氏は子である足利基氏を鎌倉へ派遣し、以来、長官の鎌倉公方は基氏とその子孫、これを補佐する関東管領は上杉氏が世襲する鎌倉府となった。…
    42キロバイト (6,582 語) - 2024年10月13日 (日) 21:51
  • 村上天皇ら南朝方の軍勢と、足利義詮ら北朝方の軍勢との間で行われた合戦である。 観応の擾乱により、北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂した。直義派による高師直・高師泰兄弟の謀殺後も対立は止まらず、正平6年/観応2年(1351年)直義
    6キロバイト (842 語) - 2024年10月1日 (火) 12:54
  • 建武の新政のサムネイル
    を行き渡らせるため、10月には側近の北畠親房、親房の子で鎮守府将軍・陸奥守に任命された北畠顕家が義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥国へ派遣されて陸奥将軍府が成立。12月には尊氏の弟の足利直義が後醍醐皇子の成良親王を奉じて鎌倉へ派遣され、鎌倉将軍府が成立。 元弘4年/建武元年(1334年)正月には立…
    84キロバイト (12,012 語) - 2024年11月27日 (水) 01:55
  • 直義入道逐電京都騒動スト云々 廿八日直義入道南都ニ到内侍原法眼カ家ニ居ス 十一月一日越智伊賀守カ家へ直義入道入テ居ス近国ノ武士馳アツマリ数千人ニ及フト云々 同七日直義入道南方へ降参則勅免ノ綸旨ヲ給ヒ大将軍トセラルト云々是ニ依テ畿内ノ官軍コト〳〵ク東条へ馳アツマリ直義入道ニ属ス其勢雲霞ノ如シト云々
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