コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

水の都

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

水の都(みずのみやこ)は、運河河川水路などが、都市景観の形成や交通・交易に大きな役割を果たしている都市に対して使用される愛称。水都(すいと)とも呼ばれる。

アッカデーミア橋から望遠するカナル・グランデヴェネチア
ケイザー運河(アムステルダム
中之島大阪

世界的には、イタリアヴェネツィアを筆頭に、オランダアムステルダム日本大阪ロシアサンクトペテルブルク中国蘇州などを指す。

概要

[編集]
道頓堀(大阪市中央区)

元々は瀬戸内海航路の起点で、海に囲まれていた難波宮(現在の大阪)を指す語で、低湿地で多様性のある水郷とは異なり、道路や水路・運河が交錯する地割が、街の風景となる水辺都市のことを指す。

主な水の都

[編集]

日本国内

[編集]
茨城県
  • 水戸市 - 北部を流れる那珂川と南部に広がる千波湖の間に水戸駅を中心とする繁華街が形成されており、かつてはそれらを天然の堀とした水戸城が存在した城下町であった。また水戸という地名においても、那珂川の舟運の河港として盛え、水運の戸口とされていた事に由来している。[1]
新潟県
静岡県
  • 三島市 - 源兵衛川が市の中心部を流れ、市街と川が一体化した親水エリアが三島駅の南に広がっている他、南に豊富な湧水を持つなど、水源も豊富なことで全国的に有名である。[3]
大阪府
  • 大阪市 - 古代に現在の上町台地に位置する難波津難波宮の都がおかれ、ここを拠点に瀬戸内海各地や九州、さらには大陸との交易・交流によって、新しい技術や文化が大阪に持ち込まれたことから、水の都の代表的な都市として知られる。江戸時代以降、多くの水路が開削され、そこに架けられた橋の多さから「浪華八百八橋」と称された。 また大阪の旧国名摂津」「河内」「和泉(いずみ)」(摂河泉)は三つとも水に関係している。 大阪#近世の大阪の移り変わりも参照。2009年には水の都を前面に打ち出した「水都大阪2009」を開催。[4]
愛媛県
  • 西条市 - うちぬきと呼ばれる地下水が豊富で、うちぬきがある地区は上水道代がかからないことや、水都橋、水都館等、水都と名の付く地名施設も多く「水の都」を称している。[5]
熊本県
  • 熊本市 - 世界の都市(人口50万人以上)で唯一水道水源を100%地下水だけでまかなっている都市で、「世界一の地下水都市」とも言われている。

海外

[編集]

ヨーロッパ

[編集]

アジア

[編集]

かつて水の都と称された都市

[編集]
  • 東京23区 - 利根川荒川多摩川の下流域であり湿地帯であったが、江戸幕府開府以降は大規模な治水工事により多数の堀や川が張り巡らされていた。しかし、関東大震災東京大空襲後の復興や高度経済成長期の経済発展を経て、その多くは高速道路で覆われたり埋め立てや暗渠化がされるなどして、現在では人間の生活とは隔絶してしまったとされる[6]
  • 大垣市 - 揖斐川長良川を始め市内に15本の一級河川が流れており水都と呼ばれてきた。しかしながら、近年は産業構造の変化によりイメージが薄れつつある。市内には、初めて人工の湧水井戸に成功した掘抜井戸発祥の地があるほか、多くの井戸が存在し、地下水が豊富である。また、岐阜県西濃地方、滋賀県のみに生息が確認されているハリヨが市内に生息している。[7]

水の都を構想する都市

[編集]
  • 広島市 - 1589年毛利輝元広島城太田川下流の三角州地帯に築いて以来、城下町として市街地を形成。この立地を活かし、1990年3月から水の都構想を開始している。[8]
  • 佐賀市 - 干拓地である佐賀平野には、淡水の確保、舟運、雨水の貯留排水、防衛など複合的な機能を持ったクリークと呼ばれる水路網が発達し、現存しているクリークの総延長は2,000kmにも及ぶ。[9]

脚注

[編集]
  1. ^ 茨城県『いばらきまちづくり通信 つどえ~る!』「<市町村探訪> うわさのこのまち」 ,2024年11月29日閲覧。
  2. ^ 新潟県『水の都にいがた「憩いの水辺空間」』,2024年11月29日閲覧。
  3. ^ 三島市企画戦略部広報広聴課『水の都 三島』,2024年11月29日閲覧。
  4. ^ 水都大阪『水都大阪の歴史』,2024年11月29日閲覧。
  5. ^ 里の物語『JA西条 ときめき水都市(すいといち) 本店』,一般財団法人都市農山漁村交流活性化機構,2024年11月29日閲覧。
  6. ^ 第一部 基調講演 「普段見ることのない角度(川)から見た都市・東京」”. 東京都建設局. p. 4. 2024年1月21日閲覧。 “東京という町はかつては水運に恵まれて、文字通り「水の都」だった。 江戸幕府は海と低湿地帯の埋め立てに力を入れ、たくさんの運河がその時同時に誕生した。その頃の川や運河は排水路・用水路・舟運などに盛んに利用されており、まさに都市の「大動脈」だったはずだ。 ところが現在、東京を見て水の都だと思う人はまずいないだろう。それは単に、明治以降の近代化に伴って、川はその動脈としての役目を陸運=道路・鉄路に取って代わられてしまったことだけに起因する印象ではない。工業化や人口増に伴う排水汚染の深刻化、野放図なコンクリートの護岸工事、それらが生み出した悪臭…人々は急速に川を遠ざけるようになり、折からの用地不足も後押しする形で、東京の住人たちは次々と川に蓋をしてしまった。高速道路で上空を覆ってしまった川もあれば、 暗渠で完全に封印されてしまった川もある。いずれにせよ、現代東京における川はまったく身近な存在とは言えない。いまでもすぐそばに流れているにもかかわらず、誰もその存在を意識しない。”
  7. ^ 大垣市『水都大垣再生プロジェクトについて』,2024年11月29日閲覧。
  8. ^ 広島市『「水の都ひろしま」構想 概要版』,2024年11月29日閲覧。
  9. ^ 産経新聞『佐賀市民「目指せ水都」水路活用で地域おこし』,2017年9月13日

関連項目

[編集]