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電流丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
電流丸
基本情報
建造所 シー・ヒプス・アンド・サンズ[1]
艦種 砲艦[2]、またはコルベット[3]
艦歴
竣工 1856年(安政3年)[4]または1858年(安政5年)[5]
就役 安政5年11月(1858年)に佐賀藩が購入
明治元年(1868年)徴発[1]
その後 明治4年6月(1871年)売却解体
要目([2]による)
排水量 約800トン
トン数 積載重量トン:300トン
長さ 全身長:150(約45.46m)
甲板幅:26尺(約7.88m)
吃水 12尺(約3.64m)
推進 内車[6](スクリュー・プロペラ)
出力 100馬力
帆装 3檣バーク
速力 6ノット
明治3年4月時:5ノット[5]
燃料 石炭:150,000斤
航続距離 20,000斤/日
乗員 明治3年4月時:90名[5]
兵装 蘭式16cm4輪側砲 4門(明治3年4月時撤去済み[5])
40ポンド・アームストロング砲 1門
20ポンド・アームストロング砲 1門
12ポンド長カノン砲 4門
12ポンド・ホイトース砲 2門
30ポンド・カルロナーデ砲 4門
12cm忽微砲 1門
1ポンド自在砲 4門
その他 船材:
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電流丸(でんりゅうまる)は佐賀藩所有の軍艦[3]。3檣バーク形の木造砲艦[2]、またはコルベット[3]

艦歴

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オランダロッテルダムアムステルダムで製造され安政3年(1856年[4]、または安政5年(1858年)に竣工[5]、原名は「ナガサキ(長崎[5]NAGASAKI[1])」[4]。安政5年(1858年)11月に佐賀藩が長崎でオランダ政府から購入した[4]。代価は10万ドル(7万両)であった[7]

慶応4年(明治元年)3月26日(1868年4月18日)に大阪天保山沖で日本で初めての観艦式が行われた[8]。この時は観兵式の名称で行われ、「電流丸」は旗艦として参加した[8]。後年、岡田三郎助は「電流丸」が参加した観艦式の様子を絵画『大阪行幸諸藩軍艦御覧』として制作。聖徳記念絵画館に納めている[9]

明治元年(1868年)に新政府軍が徴発した[1]。明治2年(1869年)の箱館戦争の際は、5月7日に2個小隊を乗せて大阪に回航、同25日に佐賀に帰港した[4]。明治3年7月(1870年8月頃)に普仏戦争が勃発し、中立を守るために太政官は7月28日(新暦8月24日)に3個小艦隊を編成し、「龍驤」と「電流丸」「延年丸」の3隻は中牟田武臣(「龍驤」乗艦)の指揮で長崎港に派遣された[10][11][12]。 翌明治4年3月7日(1871年4月26日)に警備は解かれた[13]

明治4年(1871年)に兵部省への献納の申し出があったが老朽艦のため砲のみ受け取り、同年6月に伊万里で売却解体された[1]

この時に日本海軍籍(当時の軍務官の管理下)となったかどうかには諸説があり、藤原彰『軍艦史』では明治2年の函館の役終了後の軍務官管理の艦の一つに揚げられ、『近世帝国海軍史』によると入籍しなかったという[8]。また福井静夫『帝国海軍艦艇一覧表』では雑軍艦の項に記載があるという[8]。『日本海軍史』では上記の通り、砲のみを受け取ったとなっている[1]

要目

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右上表の要目は主に『佐賀藩海軍史』による[2]。その他の文献による要目(主に船体寸法)は以下の通り。

  • 『明治元年 公文類纂』:長さ25間 (約45.46m)、幅4間余 (7.27m余り)[6]
  • 『海軍歴史』:長さ27間 (約49.1m) 、幅4間半 (約8.18m) 、深さ4間 (約7.27m) 、大砲10門[14]
  • 『日本近世造船史 明治時代』:長さ150フィート (45.72 m) 、幅26フィート (7.92 m) 、トン数300トン[3]
  • 『日本海軍史 第7巻』:長さ46.9m、幅8.1m、排水量300トン[15]

艦長

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艦長
船将
  • 増田孫作:明治4年3月時(艦長)[16] - 明治4年6月[4]

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f 『日本海軍史』第7巻pp.469-470、電流丸。
  2. ^ a b c d #佐賀藩海軍史(1972)pp.248-249
  3. ^ a b c d #日本近世造船史明治(1973)p.128
  4. ^ a b c d e f g #佐賀藩海軍史(1972)pp.249-251、諸行動
  5. ^ a b c d e f #M3公文類纂8/諸藩艦船有無届(8)画像60
  6. ^ a b #M1公文類纂/蒸気軍艦届(3)画像13。
  7. ^ 「幕末期佐賀藩富国策の展開と国内外市場」(301)51ページ
  8. ^ a b c d 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』p.210。
  9. ^ 岡田三郎助苦心の力作「観艦式」完成『大阪毎日新聞』昭和11年4月21日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p707 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  10. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治3年7月28日(太政官)。
  11. ^ #帝国海軍機関史(1975)上巻p.290
  12. ^ #M1-M9海軍省報告書画像13、明治3年7月。
  13. ^ #海軍制度沿革8(1971)p.33、明治4年3月7日(御沙汰)諸港守備ノ軍艦ヲ解クノ件「兵部省 諸港守衛トシテ出張之軍艦解備被仰付候間帰艦之儀其省ヨリ可相達候事」
  14. ^ #海軍歴史23船譜(1)画像10。
  15. ^ 『日本海軍史』第7巻p.228。
  16. ^ #M4公文類纂24/電流艦横浜着艦の届画像1 海軍諸届88、第26号「電流艦長増田孫作本月十八日崎陽港出発一昨廿三日横濱着船今日同人登省之上届相成候事 三月廿五日」

参考文献

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  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『記録材料・海軍省報告書第一』。Ref.A07062089000。 (国立公文書館)
    • 『明治元年 公文類纂 完 本省公文/蒸気軍艦届 自5月 至12月 諸藩より所有艦船を届け出るもの(3)』。Ref.C09090001200。 
    • 『公文類纂 明治3年 巻8 本省公文 艦船部/諸藩艦船有無届(8)』。Ref.C09090108500。 
    • 『公文類纂 明治4年 巻24 本省公文 艦船部/海軍諸届 電流艦横浜着艦の届』。Ref.C09090386400。 
    • 『海軍歴史 巻之23 船譜(1)』。Ref.C10123646500。 (勝海舟『海軍歴史』巻23。)
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻四の1』 明治百年史叢書 第175巻、原書房、1971年11月(原著1939年)。 
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9
  • 勝海舟『勝海舟全集 13』勝部真長・松本三之助・大口勇次郎/編、勁草書房、1974年。
  • 造船協会/編『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書 第205巻、原書房、1973年(原著1911年)。 
  • 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。 
  • 秀島成忠/編『佐賀藩海軍史』 明治百年史叢書 第157巻、原書房、1972年12月(原著1917年)。 
  • 山形万里子「幕末期佐賀藩富国策の展開と国内外市場 陶器国産専売仕法を中心に」社会経済史学 69巻3号、(297)47-(321)71ページ

関連項目

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