王懐慶
王懐慶 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: | 1876年(清光緒2年)[1] |
死去: |
1953年 中華人民共和国天津市 |
出身地: | 清直隷省河間府寧晋県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 王懷慶 |
簡体字: | 王怀庆 |
拼音: | Wáng Huáiqìng |
ラテン字: | Wang Huai-ch'ing |
和名表記: | おう かいけい |
発音転記: | ワン フアイチン |
王 懐慶(おう かいけい)は清末民初の軍人。清朝では北洋系、中華民国では北京政府、直隷派に属した。字は懋宣または懋軒。
事績
[編集]袁世凱配下としての台頭
[編集]最初は牧童であったが、[2]後に天津武備学堂第2期を卒業する。[3][4]1892年(光緒22年)より聶士成の下に配属され、哨官となった。1900年(光緒26年)7月、義和団の乱で聶が戦死した際に、王懐慶は危険を冒して聶の遺体を回収し、霊柩に納めて聶の故郷である安徽省に送り届けた。この行動を袁世凱に評価され、その部下として登用されている。[2]
1905年(光緒31年)、北洋常備軍騎兵第2協協統となる。1907年(光緒33年)、東三省督署軍務処会弁兼奉天中路統領に任命された。1909年(宣統元年)には、淮軍統領となり、さらに通永鎮総兵に異動した。[2][4]1911年(宣統3年)、新軍第20鎮の王金銘・施従雲らが灤州起義を起こすと、王懐慶はこれに参加しながらも中途で清軍に寝返っている。[3]
1912年(民国元年)1月、王懐慶は灤州都督に推挙された。同年3月には、天津鎮総兵兼密雲鎮守使、6月には薊渝鎮守使、多倫鎮守使をつとめた。1914年(民国3年)9月、冀南鎮守使となる。1915年(民国4年)5月、管外火器営事務と清理京城官戸処督弁も兼任した。[3][4]同年12月、皇帝に即位した袁世凱から二等男に封じられている。[2]
直隷派の一員として
[編集]袁世凱死後の1916年(民国5年)6月、大名鎮守使に異動し、以後は直隷派の一員となる。[5]1918年(民国7年)2月、幇弁直隷軍務に、翌年5月、歩兵統領兼陸軍第13師師長に任命される。1920年(民国9年)7月の安直戦争では、京畿衛戍司令をつとめ、1922年(民国11年)4月の第1次奉直戦争でも奉天派の背後を脅かして直隷派の勝利に貢献した。これにより同年5月、熱河都統に任命されたが、王は引き続き京畿衛戍司令をつとめる(そのため、同省幇弁の米振標が都統を代理した)。[6][3][4]
1924年(民国13年)の第2次奉直戦争では、王懐慶は討逆軍第2軍総司令や西北辺防督弁を呉佩孚から委ねられた。しかし、王は奉天派の軍に敗北し、下野に追い込まれた。1926年(民国15年)4月、呉が復権して奉天派の張作霖と合作したため、王も北京警衛司令(衛戍司令の改組)に返り咲いた。[2][7][4]しかし、やはり奉天派から圧迫され、同年11月に辞任に追い込まれた。[8]
以後、軍政から引退した王懐慶は、天津に寓居する。日中戦争(抗日戦争)時に日本軍が華北を支配した際には、王は京漢路治安軍総司令に任命された。しかし王は、実際にはこの任命に応じていない。1953年、天津で病没。享年78。[2][9]
注
[編集]- ^ 徐主編(2007)、190頁による。来ほか(2000)、1100頁とWho's Who in China 3rd ed., 1925, p.807.は1866年生まれとしている。
- ^ a b c d e f 徐主編(2007)、190頁。
- ^ a b c d 来ほか(2000)、1100頁。
- ^ a b c d e 外務省情報部編(1928)、395頁。
- ^ 徐主編(2007)、190頁による。来ほか(2000)、1100頁や外務省情報部編(1928)、395頁によれば、王はいったん引退した、としている。
- ^ 徐主編(2007)、190頁、407頁。
- ^ 来ほか(2000)、1100-1101頁。
- ^ 徐主編(2007)、190頁。劉ほか(1995)、69頁は、9月辞任とする。
- ^ 来ほか(2000)、1101頁。
参考文献
[編集]- 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 外務省情報部編『改訂 現代支那人名鑑』東亜同文会調査部、1928年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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