田井耕耘
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田井 耕耘(たい こううん、慶応元年9月15日[1](1865年11月3日) - 昭和11年(1936年)11月3日[1])は、明治から昭和にかけての女性日本画家。
来歴
[編集]尾形月耕の門人[1]。本名は起く、俗名は喜久(子)、月耕の門下となってからは耕耘と号した[1]。慶応元年、紀州家御典医であった田井俊斎となつの次女として生まれる[1]。月耕の弥左衛門町時代(明治15年〈1882年〉 - 明治19年〈1886年〉)からの門人と伝わる[1]。明治21年(1888年)3月、月耕と結婚し、同年9月に長男の正子(まさつぐ、のちの尾形月山)を生む[註 1]。のち明治30年(1897年)には長女の玉子(玉耕)が生まれた[1]。
明治24年(1891年)、日本青年絵画協会臨時研究会に「今様処女」を出品し五等褒状を得る。明治32年(1899年)、錦絵の作として唯一確認できる「踊姿絵」シリーズを発表した[3]。明治33年(1900年)春の第8回日本絵画協会・第3回日本美術院連合絵画共進会において「恋無情」が二等褒状を、同年秋の第9回日本絵画協会・第4回日本美術院連合絵画共進会において「砧」が三等褒状を得ている。
昭和11年11月3日に71歳で没した[1]。墓所は夫の月耕、息子の月山と伴に雑司ヶ谷霊園にある[1]。
作品
[編集]- 「踊姿絵 松魚売」 大判錦絵 ※明治32年。
- 「踊姿絵 酒屋の御用」 大判錦絵
- 「踊姿絵 常盤」 大判錦絵
- 「踊姿絵 源太」 大判錦絵
- 「踊姿絵 うつほ」 大判錦絵
- 「踊姿絵 朝妻」 大判錦絵
- 「踊姿絵 関兵衛」 大判錦絵
- 「踊姿絵 草摺引」 大判錦絵
- 「踊姿絵 種蒔三番」 大判錦絵
- 「踊姿絵 橋弁慶」 大判錦絵
- 「踊姿絵 羽根のかむろ」 大判錦絵
- 「踊姿絵 山姥」 大判錦絵 以上いずれも早稲田大学演劇博物館所蔵、松木平吉版
- 「踊姿絵 喜撰」 大判錦絵
- 「踊姿絵 汐波」 大判錦絵
脚注
[編集]註釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i 塚本(2019年)42頁
- ^ “尾形月山(おがた・げっさん)” (PDF). 近代版画家名覧(1900-1945). 版画堂. p. 6. 2022年8月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月12日閲覧。
- ^ 『ラスト・ウキヨエ』によると全14枚が知られる。
参考文献
[編集]- 美術誌『Bien(美庵)』Vol.45(2007年秋号 藝術出版社) 特集「尾形月耕とその一門」 岩切信一郎・悳俊彦・瀬木慎一・福富太郎・桃投伸二 恵比寿堂ギャラリー/ギャラリー紅屋 http://geijutsu.la.coocan.jp/japanesebian_backissue.html ISBN 978-4-434-10956-0
- 塚本園子「田井耕耘筆《踊姿絵》シリーズについて」『実践女子大学香雪記念資料館館報』第16巻、実践女子大学香雪記念資料館、2019年、42-47頁、ISSN 2432-9568、NCID AA12781481、2024年3月12日閲覧。
- 太田記念美術館編 『ラスト・ウキヨエ 浮世絵を継ぐ者たち‐悳俊彦コレクション』 太田記念美術館、2019年