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田邊隆二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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たなべ りゅうじ

田邊 隆二
生誕 1884年1月
日本の旗 日本岡山県児島郡
死没 1945年2月14日(61歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学法科大学政治学科
職業 官僚事業家
肩書き 京都電燈社長
関西配電初代社長
(現・関西電力
配偶者 静子(八代則彦の妹)
  • 彦太郎(父)
  • 歌(母)
家族 善太郎(兄)
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田邊 隆二(たなべ りゅうじ、1884年明治17年)1月[1] - 1945年昭和20年)2月14日[2] )は日本の逓信官僚であり実業家でもある。東大を学業優秀で卒業し、国から恩賜の銀時計を授与されたいわゆる「銀時計組」であり、卒業後、逓信省入省を経て、事務次官候補となり、京都電燈社長を経て、初代関西配電(現:関西電力)社長となった。岡山県出身。

経歴

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生い立ち

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1884年明治17年)岡山県児島郡の生まれ。生家である田邊家は、素封家で代々庄屋をつとめており、この家系の父・田邊彦太郎と母・歌の次男として出生[3][1]。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し[4]、1902年(明治35年)に同校を卒業[4]、東京にある第一高等学校文科イギリス法学科へ進学した[5]。同期に難波誠四郎がいる。その後、1905(明治38年)7月に同校を卒業[6]して、東京帝国大学法科大学政治学科へ入学した。東大同期では、尾崎放哉難波誠四郎二村光三がおり、4人で一緒に東京で家を借り、鉄耕塾という名で同居生活を送る[7]。1909年(明治42年)に同校を卒業した[3]

大学卒業後

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同年、東大在学中に現役で高等文官試験合格し、恩賜の銀時計を授与される[8]。卒業後は、逓信省へ入省する[4]。入省後、監察局事務官、管理局総務部長、経理局長、逓信省参事官(逓信大臣官房文書課長)に昇進し、1924年(大正13年)40歳の時に逓信局長となった。札幌、熊本、大阪の各逓信局長を経て[8]、大阪逓信局長兼大阪地方海員審判所長となる。1927年(昭和2年)に逓信省簡易保険局長へ出世する[4]。このとき逓信省の事務次官(事務方トップ)へ昇進が内定しており、当時の逓信大臣望月圭介から次期事務次官として推薦されるくらいであった[8]

しかしながら、この時、京都電燈社長であった田中博から田邊に入社して常務(後々社長)として経営を助けて欲しいと何度も懇願され、田中の熱意に押された田邊は、意を決して約20年間に渡る官僚生活を捨て、1928年(昭和3年)44歳のときに京電へ常務取締役として入社する[8]

京電入社後

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入社後、京電の経営に関わり、老齢の田中社長を補佐し優れた経営能力を発揮した。電力界に田邊ありと言われるくらい有名となり、1931年(昭和6年)入社からわずか3年で副社長へ昇進した[8]。国から正4位勲4等を授与され、この時には年老いた田中社長にかわって田邊が経営の実権を握っていた[8]。しかし、当時は昭和恐慌の中であり、電力不況のため、各電力会社は経営難に陥っていた[8]。そんな折、田邊のいた京電は、不況期においても株の高配当を維持し、単なる地方の電力会社に過ぎなかった京電を田邊が率いる経営陣の努力によって、6大電力会社と呼ばれるまでに成長させた[8]。この当時、官僚出身の実業家は、安易な官場生活に慣れているためか、経営は比較的に保守的であり、弾力性に乏しいとされていた[8]

田邊においては、その官僚時代に抑制された駿足を、実業家として、自由に遺憾なく発揮できた。そのため、田邊の経営の特徴として積極的で攻撃的なところが挙げられる。田邊の性格は、荒削りで線が太く豪快であるが、人を受け入れる度量が大きく従業員から慕われていた[8]。また、同郷出身の高梁中学出身である板野道夫も当時課長として在籍しており、親交があった。その後、田中社長の退任に伴い、1937年(昭和12年)京都電燈社長となった[9]1938年(昭和13年)京電創立50周年記念式を行い、1940年(昭和15年)には、福井電力、南越電気および大正電気を買収した。

しかしながら、国主導の戦時配電統制令によって1942年(昭和17年)に解散。設備は、新たに設立された関西配電へ引き継がれた。関西配電は、配電統制令公布・施行後の1941年(昭和16年)9月、配電統制令に基づく逓信大臣の関西配電株式会社設立命令が日本発送電日本電力東邦電力南海水力電気宇治川電気・京都電燈の民間6社と兼営電気供給事業を営む阪神電気鉄道阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)・南海鉄道(現:南海電気鉄道)・関西急行鉄道(現:近畿日本鉄道)・京阪電気鉄道の5社、市営電気供給事業を営む大阪市神戸市京都市の3市、合計14事業者に対して発令され[10]、設立の時点においては、14事業者の統合(第1次統合)を実施したのみで管轄地域の配電統制を全面的に実現したわけではなかった。そのため順次残存配電事業の統合(第2次統合)が進められ、翌1943年(昭和18年)7月1日をもって統合を完了した[11]。関西配電は、日本発送電に電源の9割を依存しており、日本発送電側にも、同郷出身の高梁中学の後輩である森寿五郎(後の初代関西電力副社長)が主要幹部におり連携していた。

関西配電の初代社長として

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このとき、関西配電内の力関係として宇治川電気の方が京都電燈より企業規模が大きかったが、電力を管轄している逓信省出身で事務次官候補までなっていた、田邊が逓信省の強い意向で1942年、58歳で初代の社長となる。宇治川電気社長の堀新は副社長に就任した。この後、逓信省の命令に従い、域内の電力設備の統合を進め、1945年(昭和20年)第二次世界大戦の終戦間近まで社長をつとめたが、同年2月14日、関西配電社長として在職中に死去[12]。享年61歳であった。

脚注

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  1. ^ a b 帝国人事大鑑 昭和9年版 p.63, 帝国日日通信社, 昭和9年
  2. ^ 関西配電社史, 関西配電清算事務所, 1953
  3. ^ a b 関西名士写真録, 国勢協会, 昭和10年
  4. ^ a b c d 岡山県行幸記念誌 p.126, 出版者 岡山県行幸記念誌刊行会, 昭和9年
  5. ^ 第一高等学校一覧 明治35-36年 p.116 田邊隆二
  6. ^ 第一高等学校一覧 明治39-40年 p.248
  7. ^ 尾崎放哉の大学時代の俳句 - 自由律俳句大辞典
  8. ^ a b c d e f g h i j 興亜経済人読本 p.94-95, 志賀護 著, 政治経済資料研究社, 昭和14年出版
  9. ^ 神戸市交通局100年史, 第4章 戦時下の神戸市電気局
  10. ^ 「配電統制令第三条第二項の規定に依る配電株式会社設立命令に関する公告」『官報』第4413号、1941年9月20日。
  11. ^ 『関西配電社史』12-23頁
  12. ^ 尾崎放哉 (新訂俳句シリーズ・人と作品 ; 8), 伊沢元美 著 桜楓社, 1980.3