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甲州流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
甲州流軍学から転送)

甲州流(こうしゅうりゅう)とは、小幡景憲が開いた軍学流派武田信玄戦術を理想化している。甲州流軍学、武田流、信玄流とも呼ばれる。

概要

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小幡家は武田信縄の代から武田氏に仕え、小幡景憲の父・昌盛高坂昌信の寄騎であったという。武田氏滅亡後、小幡家は他の武田遺臣とともに徳川氏に仕えた。

小幡景憲は1595年文禄4年)に徳川秀忠のもとを致仕し、武田氏の遺臣を訪ねてまわって軍法を学んだという。主なところで、山本勘助より軍法を伝授されたという広瀬景房馬場信房より城取りの伝を伝授されたという早川幸豊、上泉流軍配を伝える岡本宣就らに学んだという。 そして時期は不明だが『甲陽軍鑑』を入手し、これに武田遺臣たちより学んだ内容を加えた軍学を教授した。

景憲の門人は多く、細川光尚熊本藩主)、浅野長治三次藩主)、永井尚政淀藩主)、水野忠胤水野藩主)ら大名の門人もいた。門人中で最も優れた北条氏長富永勝由梶定良近藤正純は「小幡門四哲同学」と呼ばれ、四哲を含む11名の優れた門人が「甲州流十一哲衆」と呼ばれた。

各地への伝播

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景憲の甥・小幡景行の子孫は広島藩に仕え、甲州流軍学を教授した。

景憲の家臣で門人でもあった杉山盛政は久松松平家に仕えた。松平定信はこの系統の甲州流軍学を学んでいる。

淀藩主で景憲の門人でもあった永井尚政は、家臣に甲州流軍学を教授した。この系統は尾張藩忍藩高田藩にも伝わった。また、この系統より手鑑流、甲陽的伝流が分かれた。

景憲の門人の佐々木秀乗は仙台藩に仕えた。この系統より加賀藩の有沢永貞を輩出している。

加賀藩には複数の系統の甲州流軍学が伝わった。甲州流と山鹿流を学んだ有沢永貞前田綱紀に仕え、有沢家は代々、加賀藩で甲州流軍学を教授した。このため有澤流とも呼ばれた。[1]この系統のほか、景憲の門人の星野泰吉が前田綱紀に仕えた時期に教授した系統も加賀藩に残った。

尾張藩にも複数の系統で甲州流が伝わっており、永井尚政の系統と小幡景行の系統が伝わっている。

浅野家藩政期の赤穂藩の軍学は山鹿流で知られるが、四哲の一人である近藤正純が浅野長直に仕えており、赤穂移封後も浅野家中で甲州流を教授していた。正純の子・近藤勝久は津山藩に仕えた。

八戸藩にも伝わっている[2]

この他、多くの藩に甲州流は伝わった。

分派も多いが、その中でも四哲の一人の北条氏長が甲州流より迷信的要素を除いて開いた北条流、山鹿素行が儒教思想を基盤として開いた山鹿流が特に有名である。


主な甲州流軍学者

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小幡門四哲同学

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その他の甲州流軍学者

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北条氏長の弟子

脚注

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  1. ^ 平山城木形分愛間絵図 publisher=西尾市岩瀬文庫”. 2012年4月14日閲覧。
  2. ^ 八戸藩の武芸” (PDF). 八戸市史編纂室. 2012年4月14日閲覧。
  3. ^ 鈴木啓氏(福島県立博物館初代学芸課長). “第5回 中村城の土塁・堀”. 相馬市. 2012年4月14日閲覧。
  4. ^ 『「兵法者の生活」第六章.幕末兵法武道家の生涯 三.窪田清音の業績』(P221-229)

関連項目

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参考文献

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  • 国史大辞典 第5巻(1985年)
  • 武田流軍学全書(1935年、3巻)
  • 武田流軍学:甲陽軍鑑抄(神子侃、吉田豊、1965年)
  • 日本兵法全集 第1巻 甲州流兵法(石岡久夫人物往来社、1967年)
  • 甲州流兵法 信玄流兵法(石岡久夫、新人物往来社、1969年)
  • 増補大改訂 武芸流派大事典(綿谷雪・山田忠史、東京コピイ出版部、1978年)
  • 甲州流兵法にみる倫理--『甲陽軍鑑』を中心に(田井健太郎日本体育学会体育哲学専門分科会編集委員会、2006年)