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真柄直隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
真柄十郎左衛門から転送)
 
真柄 直隆
姉川合戦図屏風 真柄十郎左衛門
時代 戦国時代
生誕 天文5年(1536年
死没 元亀元年6月28日1570年8月9日
別名 十郎左衛門
墓所 福井県越前市宮谷町の興徳寺
主君 朝倉氏
氏族 真柄氏
父母 父:十郎左衛門家正
兄弟 直隆直澄
隆基
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真柄 直隆(まがら なおたか)は、戦国時代武将朝倉氏の家臣。真柄十郎左衛門。豪傑として知られる人物で、講談(講釈)や軍記物にしばしば登場する。なお、弟の真柄直澄と同一人物とする説、さらに父の十郎左衛門家正と事績が混同されているとする説がある。

略歴

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越前国真柄荘国人として朝倉氏の客将となり、上真柄の地に居館を構えた。但し、真柄氏は朝倉家中では堀江氏などと共に、在地性・独立性が強い国人衆で、越前に足利義昭が頼ってくるまで、朝倉氏に臣従的態度を取りつつも、軍役を一部負担するだけ(すなわち被官)という立場で、朝倉家の完全な家臣という立場ではなかった[1]

真柄氏に伝えられた記録「真柄氏家記覚書」では、父は同じく十郎左衛門を称した真柄家正とされ、両者の事績が混同されている可能性もあるという[2]

直隆は身長7尺(210cm)の大男で[3][4]、朝倉家中でも武勇に優れ、黒鹿毛の馬に跨り、大太刀を振り回して戦ったことで有名である。彼が用いた大太刀の正体については資料や場面により諸説あり、越前の刀匠千代鶴国安作の五尺三寸(約161cm)[3]備中青江派の刀工作で熱田神宮が所蔵する刃長七尺三寸(約221cm)の「太郎太刀[3]、『明智軍記』による七尺八寸(約237cm)[5]、『 朝倉始末記』による九尺五寸(約288cm)[3][4]などがある。足利義昭が朝倉義景を頼って一乗谷に来た際、御前で大太刀を軽々と頭上で数十回振り回し、豪傑ぶりを披露したと伝わる[6]

元亀元年(1570年)、織田氏と朝倉氏の合戦であった近江国の姉川の戦いにおいて、直隆は太郎太刀を振って奮戦するも、朝倉陣営の敗戦が濃厚になると味方を逃がすべく、単騎で織田氏援軍の徳川家康の陣営に突入し、12段構えの陣を8段まで突き進んだ。だが、向坂三兄弟の攻撃を受け力尽き、「我頸を御家の誉れにせよ」と敵に首を献上して果てた[7]。向坂兄弟が討ち取った時に使用した太刀は「真柄斬り」と名付けられ、名刀の一つになっている。なお、弟の直澄と子の隆基も勇猛で知られたが、この戦いで同じく討死している。だが、朝倉氏滅亡後の天正11年(1583年)に「真柄加介」宛てに織田氏家臣の丹羽長秀から知行安堵状が発給されているため、真柄一族はその後も存続していることが窺われる。

太郎太刀は現在、愛知県名古屋市熱田神宮宝物館に奉納されている。熱田神宮にある物は直澄所用の次郎太刀であり、白山比咩神社にある物が直隆の太郎太刀(藤島行光作刀)という説もある。

墓所の越前市宮谷町は中世真柄庄の南西に位置し、隣接する活泉町には斯波氏の鞍谷御所が置かれていた。

関連項目

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脚注

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  1. ^ 完全に家臣団成員として家中に取り込まれた朝倉家臣下の人物の多くは、「」の字を授かっている者が多い。
  2. ^ 朝倉氏の家臣の「真柄十郎左衛門」実は親子2人で名乗ったか - 福井県のニュース”. NHK (2022年3月7日). 2022年3月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月9日閲覧。
  3. ^ a b c d 【戦国こぼれ話】君は朝倉氏の家臣で、名刀「太郎太刀」で名を馳せた真柄直隆を知っているか. 渡辺大門 Yahoo News. 2021年10月6日.
  4. ^ a b 小和田康経『刀剣目録』新紀元社、2015年6月12日、301頁。ISBN 4775313401NCID BB19726465 
  5. ^ 南条郡教育會『福井縣南條郡誌』1934年5月、548頁。 NCID BN08685928 
  6. ^ 朝倉始末記
  7. ^ 『信長公記』においては、青木所左衛門(青木一重)が討ち取ったとなっている。

外部リンク

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