石井廣治
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(石井広治から転送)
石井 廣治 いしい ひろじ | |
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1953年撮影 | |
生年月日 | 1906年2月20日[1] |
出生地 | 兵庫県神戸市 |
没年月日 | 1988年7月22日(82歳没)[2] |
死没地 |
兵庫県神戸市中央区 神戸市立中央市民病院 |
出身校 | 神戸経済大学経営経録第一講習所 卒業[1] |
前職 | タイヘイレコード社長 |
所属政党 | 自由民主党 |
配偶者 | あり |
子女 |
石井一(長男) 石井一二(次男) |
親族 |
石井健一郎(孫) 石井登志郎(孫) |
兵庫県議会議員 | |
選挙区 | 神戸市須磨区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1959年4月 - 1971年4月 |
石井 廣治(いしい ひろじ、1906年2月20日[1] - 1988年7月22日[2])は昭和時代日本の実業家、政治家。タイヘイレコード(のち日本マーキュリー)代表取締役社長、兵庫県議会議員(3期)を務める。
来歴
[編集]神戸市出身[1]。1930年(昭和5年)に灘区で合資会社六甲ゴム製造所を立ち上げる。1944年(昭和19年)、神戸経済大学経営経録第一講習所を卒業[1]。
西宮市今津に所在し、戦時下でキングレコード改め富士音盤に接収されていた旧タイヘイレコードの工場を買い戻す受け皿として資本金400万円で新法人のタイヘイ音響株式会社を設立し、10年ぶりにレーベルを復活させる[3]。1952年(昭和27年)にはアメリカ合衆国(米国)のマーキュリー・レコードと契約を結び、社名を「日本マーキュリー」へ変更した。1953年(昭和28年)には米マーキュリーを通じてノーマン・グランツ率いるジャズ・アット・ザ・フィルハーモニックの日本公演に尽力している[4]。
1959年(昭和34年)4月の兵庫県議会議員選挙で須磨区から立候補して初当選。以降、自民党に所属し3期を務めた。政界引退後は日本マーキュリーの会長職に在ったが、1980年(昭和55年)に工場の土地明け渡しのため廃業している。
1988年(昭和63年)7月22日、肝不全のため神戸市中央区の神戸市立中央市民病院で死去[2]。享年83(満82歳没)。
家族・親族
[編集]子は男子4人で元自治大臣の石井一は長男、元参議院議員の石井一二は次男。
兵庫県議会議員の石井健一郎および、衆議院議員を経て西宮市長となった石井登志郎は孫(共に三男の子で、登志郎は一の養子)。
参考文献
[編集]- 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録』第19版 西日本編(1957年) NCID BA31178474