茨城県立石岡第二高等学校
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茨城県立石岡第二高等学校 | |
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北緯36度12分3.8秒 東経140度16分19.8秒 / 北緯36.201056度 東経140.272167度座標: 北緯36度12分3.8秒 東経140度16分19.8秒 / 北緯36.201056度 東経140.272167度 | |
過去の名称 |
石岡実科高等女学校 石岡高等女学校 茨城県立石岡女子高等学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 茨城県 |
校訓 | 貞節・勤倹・和順 |
設立年月日 | 1912年4月20日 |
創立記念日 | 4月20日 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科・生活デザイン科 |
学期 | 2学期制 |
学校コード | D108220500020 |
所在地 | 〒315-0013 |
茨城県石岡市府中五丁目14番14号 | |
外部リンク | 公式サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
茨城県立石岡第二高等学校(いばらきけんりつ いしおかだいにこうとうがっこう)は、茨城県石岡市府中にある県立高等学校。校訓は貞節・勤倹・和順[1]。
設置学科
[編集]コース選択は2年生進級時に行う[2]。
概要
[編集]1949年(昭和24年)に男女共学化したが[3]、事実上女子校として続き、男子生徒の受け入れを始めたのは1996年(平成8年)のことである[4]。2011年(平成23年)現在でも生活デザイン科は女子のみとなっている[2]。
沿革
[編集]- 1912年(明治45年)
- 1916年(大正5年) - 修業年限を3年に延長し、定員を150名とする[6]。
- 1922年(大正11年) - 修業年限を4年に延長し、定員を200名とする[6]。
- 1924年(大正13年) - 随意科目として英語の授業を開始[7]。
- 1935年(昭和10年)4月 - 新校地を国分町の現在地に決定し、翌1936年(昭和11年)から校地の買収と校舎建設を開始[8]。
- 1936年(昭和11年) - 定員を400名に増員[8]。
- 1937年(昭和12年)
- 1938年(昭和13年)
- 1942年(昭和17年) - 3・4年生の英語の授業が停止される[10]。
- 1944年(昭和19年) - 日立市に3・4年生が学徒動員され、日立製作所で旋盤などに従事する[11]。
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)11月19日 - 人間宣言を行った昭和天皇が来校[13]。
- 1948年(昭和23年) - 茨城県立石岡女子高等学校に改称[3]。
- 1949年(昭和24年)4月1日 - 茨城県立石岡第二高等学校に改称、男女共学化[3]。
- 2007年(平成19年)4月1日 - 家政科を生活デザイン科に改編[4]。
部活動
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交通
[編集]周辺
[編集]- 石岡市府中地区公民館
- 常陸国分寺
- 石岡若松郵便局
脚注
[編集]- ^ 茨城新聞社(1981):41ページ
- ^ a b 茨城県教育委員会"茨城県立石岡第二高等学校(茨城県ハイスクールガイド)"(2012年2月6日閲覧。)
- ^ a b c 石岡市史編さん委員会 編(1985):1238ページ
- ^ a b 茨城県立石岡第二高等学校"沿革史"(2012年2月6日閲覧。)
- ^ a b c d 石岡市史編さん委員会 編(1985):1148ページ
- ^ a b c 石岡市史編さん委員会 編(1985):1149ページ
- ^ 石岡市史編さん委員会 編(1985):1149 - 1150ページ
- ^ a b c d e 石岡市史編さん委員会 編(1985):1150ページ
- ^ a b c 石岡市史編さん委員会 編(1985):1155ページ
- ^ 石岡市史編さん委員会 編(1985):1210ページ
- ^ 石岡市史編さん委員会 編(1985):1210 - 1211ページ
- ^ a b 石岡市史編さん委員会 編(1985):1211ページ
- ^ 石岡市史編さん委員会 編(1985):1233ページ
参考文献
[編集]- 石岡市史編さん委員会 編『石岡市史 下巻』石岡市長 鈴木堅太郎 発行、昭和60年3月31日、1334pp.
- 茨城新聞社 編『茨城県大百科事典』茨城新聞社、1981年10月8日、1099pp.