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秦叔宝

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秦瓊から転送)
秦叔宝

秦 叔宝(しん しゅくほう、生年不詳 - 638年)は、中国軍人。名は瓊。叔宝はであり、字をもって通称される。本貫斉州歴城県。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。また後世には尉遅敬徳とともに門神として信仰された。

経歴

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はじめの将軍の来護児の部将となった。のちに張須陀に従って李密滎陽で討伐した。張須陀が李密に敗れて戦死すると、叔宝は残兵を率いて裴仁基の部下となり、裴仁基に従って李密に投降した。李密に重用されて、帳内驃騎に任ぜられた。李密が敗れた後、王世充に降り、龍驤大将軍に任ぜられた。武徳2年(619年)、王世充の性格を嫌って、程知節らとともに唐に帰順し、秦王李世民の幕下に属した。馬軍総管となって尉遅敬徳と美良川で戦い功績を挙げた。秦王右三統軍となり、宋金剛を介休に敗走させ、上柱国に任ぜられた。王世充・竇建徳劉黒闥らに対する征討でしばしば先鋒に立って敵陣を突破した。功績により翼国公に封ぜられた。玄武門の変の後、左武衛大将軍に任ぜられ、実封七百戸を受けた。

貞観12年(638年)に亡くなり徐州都督を追贈され、壮とされ、昭陵に陪葬された。太宗(李世民)はかれの人馬像を石に刻んで墓前に立てさせた。貞観13年(639年)、胡国公に追封された。

人物・逸話

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  • 叔宝の母が亡くなると、来護児は使いを立ててこれを弔問した。役人がいぶかしく思って「士卒が死んでも、将軍は弔問することがありませんでしたのに、今ひとり叔宝を弔問するのはなぜですか?」と尋ねた。来護児は「あいつには武才があり、志節もそなわっている。長く卑賎な身分ではおるまい」と答えた。
  • 張須陀が下邳盧明月を討ったとき、敵は十万あまり、張須陀の兵はわずか十分の一にすぎなかった。堅く守って進まず、食糧が尽きたので、撤退しようとした。張須陀は「賊はわれらが退却するのを見れば、必ずこぞって追撃をかけてくるだろう。精鋭をもってその陣営を襲えば、勝利をえられよう。誰かわたしのために行く者はいないか?」と尋ねた。諸将に答える者のない中、叔宝と羅士信だけが奮いたって行くことを望んだ。精兵千人を分かって草むらの間に伏せ、張須陀は退却に入った。盧明月は追撃をかけてきた。叔宝らは敵営を襲い、門が閉じて入れなかったので、楼を上って敵の旗を引っこ抜き、敵営内を混乱させ、門を守る兵を斬って外の友軍を導き、火を放って敵営を焼き尽くした。盧明月が引き返すと、張須陀も軍を返して攻撃し、これを大いに破った。また孫宣雅と海曲で戦い、先陣に立った。前後の功により建節尉に抜擢された。
  • 李密が黎陽の童山で宇文化及と戦ったとき、李密は流れ矢を受けて落馬した。叔宝はひとりで李密を守って奮戦したので、李密は捕縛を免れ、宇文化及も兵を撤退させた。
  • 叔宝には功が多く、高祖李淵は黄金の瓶を賜り、「卿は妻子をかえりみずに自分に帰順してきた。さらにまた功を立てたからには、朕の肉を食わせたって惜しくはない。どうして子女の玉帛を惜しもうか」とねぎらって言った。
  • 晩年に病が重くなると、「わたしは若い頃から戦馬の間にあり、二百あまりの戦を経て、重傷を負ったことも数あり、出血は数斛におよんでいる。どうして病にかからないことがあろうか?」と言った。

伝記資料

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  • 旧唐書』巻68 列伝第18「秦叔宝伝」
  • 新唐書』巻89 列伝第14「秦叔宝伝」

関連項目

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