智福寺 (廃寺)
智福寺 | |
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山号 | 中台山 |
院号 | 吉祥院(後身) |
宗派 |
浄土宗西山派(設立当初) 真言宗 |
創建年 | 1600年代初頭 |
正式名 | 吉祥院 中台山 遍照寺 |
別称 |
知福寺 地福寺 |
智福寺(ちふくじ)は、(筑前国)福岡城および城下町の建設とほぼ同時期(1600年代初頭)に、筑前国那珂郡福岡橋口[1]に創建された浄土宗西山派(のち真言宗)[要出典]の寺院。知福寺あるいは地福寺とも表記される。開基年、山号[2]ならびに院号は不明。初期には空与が、次いで尊秀が住持を務めた。聖福寺とならぶ200石の寺領を得ていたこと、福岡藩での宗門改が初めて行われたことなどで知られる。
創建
[編集]慶長6年(1601年)頃から、福岡城の築城工事と並行して城下町の建設がすすめられたが、そのとき城下各所の要地には寺院が置かれた[3]。智福寺もその一つであり、博多口の裏に創建されたものである。このとき住持空与は、完成したばかりの博多口の櫓に鐘を取り付けるよう藩主・黒田長政(くろだながまさ)から指示を受けている[4]。
寺領
[編集]智福寺は慶長期の福岡藩で寺領を得ていた数少ない寺院の一つである。慶長7年(1602年)・慶長9年(1604年)においてその寺領は200石で[5]、藩主黒田家の菩提寺である崇福寺の300石に次ぎ、古刹聖福寺(しょうふくじ)と並ぶ石高である。元和9年(1623年)の分限帳では108石(百八石)となっているが[6]、これは智福寺の後身である吉祥院が元和7年に得た寺領180石(百八拾石)の誤りである可能性がある。[7]。
空与守欣
[編集]播磨国明石出身の僧。「空与(空與)」は「空誉(空譽)」とも表記される。後藤基次(又兵衛年房)の叔父であるともいう[8]。7歳(数え年、以下同)のとき、十輪寺(兵庫県高砂市)雁高上人のもとで剃髪、16歳の時に禅林寺(京都府京都市)で修行、20歳にして浄土宗の教旨・開祖の旧法などに広く通じ、儒学においても人より優れていた。25歳のとき帰郷。文芸のほか、武芸にも志があり、生まれながらに優れた素質を備えていたため、その上達が早かったという。天正15年(1587年)、黒田孝高が中津に移ったときはこれに従い、中津に合元寺を開基[9]、文禄年中は孝高あるいは長政の軍旅に同行して朝鮮に渡った[10]。黒田孝高側近の連歌好士であり、孝高・長政と連歌や茶事での同座も多い[11]。 慶長5年(1600年)ごろ、如水・長政に従って福岡に移り、智福寺の住持となる。その後の事績について詳しいことは分からないが、「宗湛日記」を見ると、慶長7年(1602年)、慶長12年(1607年)、慶長15年(1610年)に神屋宗湛の茶会に同座し、後者の2回は黒田長政も席を共にしている[12]。また、慶長14年に黒田職隆の法要を智福寺で執り行った際には、その画像に賛を入れたという[13]。 慶長16年(1611年)8月6日入寂[14]。入寂に至る経緯について諸説あるが、いずれも一次史料による確認がとれず、また矛盾点が多いため否定されている[15]。「筑前国続風土記拾遺」によれば、弟子の舜道[16]が開基した浄念寺[17]に墓所および位牌・木像があり、位牌には「智福寺住空誉守欣大和尚」と記されていたという[18]。なお元禄年中(1688年 – 1704年)、空与は浄念寺の鎮守として勧請され、「智福権現」として祀られている[19]。
尊秀
[編集]もと天台宗で真言を兼ねた僧[20]。豊前国文司城(もじ — )主奴留湯(ぬるゆ)主水正の子。長門国赤間関阿弥陀寺の住持で、黒田長政が豊前中津城主であったときより愛遇していたが、あるとき阿弥陀寺を出て中津に移り、慶長5年ごろ、長政に従って福岡に移る。福岡城築城の時は地鎮の修法を勤め、その後福岡城本丸祈念櫓で長日の祈り(国家安全の祈念など)を命じられた[21]。 その後、空与の跡をついで智福寺に住まい、智福寺を真言宗の寺として吉祥院と名付け、吉祥院を警固神社の北[22]に移している[23]。また一説には、慶長13年(1608年)まで常に福岡城祈念櫓で長日の祈りをしたのち、同年警固神社に宮司坊舎を建て、その住持となったという[24]。 寛永2年(1625年)8月24日入寂[25]。 尊秀は詩文に秀でていたため、長政から嫡男・黒田忠之や家臣の子弟の教育を任されるなどした[26]。
宗門改
[編集]「1614年度イエズス会年報」[27]によると、グレゴリオ暦の1614年3月12日(慶長19年2月2日)、智福寺において福岡藩最初の宗門改が行われた。町奉行宮崎織部の命により、福岡と呼ばれる地区の戸主である男子100名余りが呼び集められ、めいめいが立ち合いの重臣4人と町奉行の前に呼び出され、誓紙に自ら署名することで「ころび」のしるしとされた。署名をためらう者は、他の者が代わることが許されたが、うち2人は断固として棄教を拒否、藩側は棄教するよう説得を続けたが応じず、ついに処刑されたという[28]。
廃寺
[編集]近世の初期に智福寺は廃寺となるが、その理由および年紀は定かでない。智福寺を吉祥院と改め、その後吉祥院を警固神社の北に移したのが慶長13年であるとする文献もあるが、他方で、慶長19年(1614年)に智福寺で宗門改が行われたという記録[29]、さらには元和9年(1623年)において智福寺が寺領を与えられていたとする史料もある[6]。
推定地
[編集]近世中期における水鏡天満宮(みずかがみ・すいきょう―)(表口25間、入25間)[30]が智福寺の跡地とされる[31]ほか、さらにその西の侍屋敷地(表口47間5尺、入45間5尺)[32]をも智福寺の跡地とする史料がある[33]。
脚注
[編集]- ^ 現在の福岡市中央区天神一丁目15番地。
- ^ 山号は「中台山」であった可能性がある。「福岡略志」以下のような記述がある。「吉祥院 中台山遍照寺と号す。…慶長十三年警固の神社を今の地に移給ひ社司坊を新に建立して尊秀を以て住職とし給ふ。今の山号ハ此時智福寺に有しを移せりと或記にあり。」(大田史料115「福岡略志」吉祥院条)。
- ^ 大寺・大社は籠城戦において砦の働きをするものと考えられていた。荻生徂徠は「鈐録」巻十六(土着論)の中で「大寺大社ヲ皆急ナル時ノ取出(砦)ニ心得」と述べている。
- ^ 『福岡県史』近世史料編福岡藩初期(上)(西日本文化協会、1982年)p.158。
- ^ 『黒田三藩分限帳』(福岡地方史談話会、1978年)pp.9, 23。
- ^ a b 『黒田三藩分限帳』(福岡地方史談話会、1978年)p.80。
- ^ 『筑前国続風土記拾遺』上巻(文献出版、1993年)p.71。なおこの180石の寺領は寛永2年(1625年)、尊秀が没した時に除かれている。
- ^ 大田史料115「福岡略志」智福寺址条(福岡県立図書館蔵)。「(略)此寺西山浄土宗にて住僧空誉ハ後藤又兵衛基次【割注: 一ニ(ひとつに=別名)年房】が叔父にて文才も有けるにや、円清(黒田如水)・道卜(黒田長政)二公の厚遇をうけ、宗円公(黒田職隆)の肖像の銘など仕ふまつれり。(略)其後、寺も廃せり(る)に今士宅の内及橋口商宅の後に古墓多く残れり。」
- ^ 『福岡県史』近代史料編 福岡県地理全誌(一)(福岡県、1988年)p.81。
- ^ 『筑前国続風土記拾遺』上巻(文献出版、1993年)p.87。
- ^ 『福岡県史』通史編福岡藩文化(下)(福岡県、1994年)p.51、『新訂 黒田家譜』第一巻(文献出版、1983年)p.519
- ^ 『茶道古典全集』第6巻(淡交新社、1958年)pp.344,364,365)。
- ^ 「空誉上人縁起」(浄念寺、1958年)、なおその内容は次のとおりである。「長政公祖父、満誉宗円大居士/二十五回忌、描影像、以命予請讃(もってよにめいじてさんをこう)。不得固辞、随其厳命。/直入真門万関絶(しんもんにじきにゅうしてばんかんたつ)/三千脱却已証説(さんぜんだっきゃくしてすでにしょうせつす)/称名珠数勤無間(しょうみょうじゅずもてごんずることむげん)/万古洋々正照傑(ばんこようようたるせいしょうのけつ)/于時(ときに)慶長十四己酉八月廿日/前智福空与守欣叟拝讃」
- ^ 浄念寺過去帳の慶長16年条に、「空与守欣上人 八月六日 橋口智福寺住持」とある。
- ^ 『福岡県寺院沿革史 全』(福岡県寺院沿革史刊行会、1930年)65頁、『福岡県史』近代史料編 福岡県地理全誌(一)(福岡県、1988年)p.81。以下は抜粋。「空誉ハ。播磨国明石ノ人ナリ。七歳ニテ。高沙(高砂)十輪寺雁高上人ノ許ニテ。剃髪ス。十六歳ニテ。洛東禅林寺ニ掛錫シ。二十歳ニテ。浄家ノ教旨祖旧。皆流通セリ。儒学モ。人ニスクレタリ。黒田如水。豊前中津ヲ領セラシ(領セラレシ)時。随従シテ。中津合元寺ヲ開基ス。朝鮮ノ役ニモ。陣中ニ従ヘリ。当国(筑前国)就封ノ後。橋口町ニ。智福寺ト云。古来アリシニ住セシメラル。慶長十二(慶長十六)年八月六日。黒田長政ノタメニ。誅セラル。当寺(浄念寺)ノ開山舜道ハ。師弟ノ間ナリケレハ。窃(ひそか)ニ死骸ヲ盗取テ。寺中ニ葬レリ。信心ノ者。立願スレハ。験(しるし)アリトテ。来拝ススル(来拝スル)者。絶ヘス。八月朔日ヨリ六日マテ。祭礼アリ。寺ニ。縁起一巻アリ。今案(あんずる)ニ。空与カ事。下村家説ニハ。本藩ノ密事ヲ。隣藩細川家ニ漏セシニ。事覚(さとら)レテ誅セラルト見ヘ。三木家説ニハ。黒田忠之。神吉某ヲ。毛利家ニ預ケラレシカ。後召返サレントアリシ時。空与内通セシニヨリ。井上道伯ニ命シテ。殺サルトアリ。浄念寺伝説ニハ。後藤又兵衛基次。国ヲ出奔シテ大坂城ニ籠リシカハ。長政是ヲ召返サレシカトモ。命ニ従ハス。折節讒者アリテ。空与後藤ト別懇ニテ国ノ密事ヲ内通セリト云ニヨレリト云。諸説同シカラス。俗伝ニ。忠之空与ヲ極刑ニ処セラレシト云ヘトモ。空与誅死ノ時ハ。忠之纔ニ(わずかに)十歳ナリ。何ノ関係アラン。後藤カ大坂ニコモリシモ。慶長十九年ノ事ナリト云。浄念寺縁起ハ寛政中ノ作ニテ。証トスルニ足ラス。又女戒ヲ犯セシト云説モアレトモ。空与此時既ニ耆老トアレハ。是モ用カタキ説也。」
- ^ (桂空上人)舜道は永禄10年(1567年)、原田氏の一族で、波多江村周辺を領していた波多江 丹後守 種賢の子として生まれた。幼名は直千代。天正15年(1587年)の原田氏没落の後、種賢はまもなく病死、直千代は剃髪して僧となる。初め春道と号していたが、のち舜道と改めた。舜道はやがて豊前国中津に至り、空誉より学業を受け、空誉の勧めによって上洛、粟生の光明寺に掛錫し、四宗兼学の奥儀を通明、衣鉢の伝を得て天正18年(1590年)帰国、糟屋郡新宮浦の西念寺三世の住持となる。しかしそのわずか3年後、舜道は波多江村に戻り、種賢の宅地があった所に寺を建て、金鳥山樹林院西方寺と号した。その後、慶長5年(1600年)、師の空誉が福岡に移って智福寺の住侶となったので、舜道も福岡での寺院建立を願い、城北の海辺の地を賜って常念寺[要曖昧さ回避](のち浄念寺)と名付けた。程なく櫛橋宗雪、佐谷隆斎、団安兵衛、白石監物らが檀越となり、慶長9年に(1604年)は本堂が落成、本尊には「歯仏の如来」を迎えた。「歯仏の如来」は「水引の如来」ともいい、皆福寺という廃址(志摩郡浦志村)にあったものである。慶長15年(1610年)、舜道は再び上京、本山禅林寺の執奏によって綸旨を得ている。正保2年(1645年)6月12日入寂。(『筑前国続風土記拾遺』上巻p.86、大田資料115「福岡略志」福岡県立図書館蔵)
- ^ 筑前国那珂郡福岡、現在の福岡市中央区大手門2丁目2番地。
- ^ 『筑前国続風土記附録』上巻(文献出版、1977年)p.41。
- ^ 『福岡県寺院沿革史 全』(福岡県寺院沿革史刊行会、1930年)p.65。
- ^ 『筑前国続風土記拾遺』上巻(文献出版、1993年)p.70。
- ^ 『筑前国続風土記』(名著出版、1973年)pp.63-64。
- ^ 現在の福岡市中央区天神2丁目、警固公園の辺り。
- ^ 『筑前国続風土記』(名著出版、1973年)pp.63-64。
- ^ 『筑前国続風土記附録』上巻(文献出版、1977年)p.33
- ^ 『筑前国続風土記拾遺』上巻(文献出版、1993年)p.71。
- ^ 『筑前国続風土記附録』上巻(文献出版、1977年)p.36。
- ^ 『キリシタン研究』第19輯(吉川弘文館、1979年)pp.178-84。
- ^ レオン・パジェス『日本キリシタン宗門史』にも、日付が全く同じで似通った内容の記事が見える。同書日本語訳(『日本切支丹宗門史』(上)、岩波書店、1938年、pp.338-39)では寺の名前がTehiforatchiiとなっているが、原書第1編本文(Léon Pagès. (1869). Histoire de la religion chrétienne au Japon depuis 1598 jusqu'à 1651, Premiere Partie Texte. Paris: Charles Douniol.)では本文にTchiforatchii (p.264)、原書第2編附録(Léon Pagès. (1870). Histoire de la religion chrétienne au Japon depuis 1598 jusqu'à 1651, Seconde Partie Annexes. Paris: Charles Douniol.)では索引にTCHIFORACHII, bonzerie dans la capital du Tchicougen(筑前の首府にある仏教の寺)(p.459)とある。原書第1編本文における「福岡」の表記がFoucouoca(p.264)、「筑前」の表記がTchicougen(p.264)であることを勘案すれば、智福寺の表記はTchifoucoutchiとなり、Tchiforatchiの綴りと共通する文字が約7割を占めることになる。なお同寺をChiforoujiあるいはTchiforatchiと表記する資料もある(Masaharu Anesaki. (1930). A Concordance to the history of Kirishitan Missions. Tokyo: Office of the Imperial Academy. pp.83,97,99)。
- ^ 「1614年度イエズス会年報」『キリシタン研究』第19輯(吉川弘文館、1979年)pp.178 – 84。
- ^ 福岡県史編纂資料650「福岡御城下絵図」(福岡県立図書館蔵)。
- ^ 『筑前国続風土記』(名著出版、1973年)p.63。なお、智福寺が四十川の天神を鎮守として勧請したともいう(大田史料115「福岡略志」水鏡天満天神祠条、福岡県立図書館蔵)。
- ^ 福岡県史編纂資料650「福岡御城下絵図」(福岡県立図書館蔵)。
- ^ 『筑前国続風土記』(名著出版、1973年)p.703、三奈木黒田家文書1708号「福岡古今屋鋪割」(九州大学蔵)。