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イリュリア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イリュリア戦争(イリュリアせんそう、ラテン語: Bella Illyrica英語: Illyrian Wars)は、紀元前229年から紀元前168年の間に3度に渡って行われた、共和政ローマイリュリア人アルディアエイ英語版族)との間の戦いである。

第一次イリュリア戦争

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第一次イリュリア戦争勃発時
赤:共和政ローマ、青:マケドニア王国、赤網:イリュリア王国

第一次イリュリア戦争紀元前229年[1]から紀元前228年の間に行われた戦いである。第一次ポエニ戦争の後、アドリア海を挟んだ交易が活発になったローマにとって、女王テウタの下で勢力を付けたイリュリア王国[2]の海賊行為は切実な問題であった。共和政ローマはイリュリア王国に使節を送り海賊行為を取り締まるよう要求したが、逆に女王の命により[3]大使が暗殺されてしまう。また、ローマの保護下にあるイタリア人の商船[4]が攻撃を受けるに至り、共和政ローマは2名の[4]執政官ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌスグナエウス・フルウィウス・ケントゥマルスが率いるローマ艦隊を差し向け、第一次イリュリア戦争が開始された。ローマ軍はアドリア海沿岸のギリシア人[5]植民都市エピダルムアポロニアコルキラファロス島などからイリュリア人を追い払い、ローマの保護領とするとともにファロスのデメトリウス英語版を新たなイリュリア王国の王に据えた[6]

第二次イリュリア戦争

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第二次イリュリア戦争勃発時
赤:共和政ローマ、青:マケドニア王国

第二次イリュリア戦争紀元前220年から紀元前219年の間に行われた戦いである。この時期は、共和政ローマは第二次ポエニ戦争カルタゴと、またガリア・キサルピナケルト人とも戦っていた。アドリア海を制圧するローマの軍事力が手薄になったのを好機として、イリュリア王国の王デメトリウスは90隻の軍船を建造し、ローマに対して戦いを挑む[7]。イリュリア艦隊は、最初にピュロスを襲い50隻の船を拿捕した。デメトリウスはイリュリア艦隊を2分し、1隊にアドリア海を越えてペロポネソス半島の東側にあるキクラデス諸島を攻めさせる。ローマの執政官ルキウス・アエミリウス・パウルス率いるローマ艦隊[8]は、イリュリアの守りが薄くなったこの好機を逃さず、アドリア海沿岸の要塞都市ディマラム[9][10]パロス[11]を襲い陥落させる。ローマ軍はイリュリア艦隊を追い詰め、デメトリウスはマケドニア王国ピリッポス5世を頼り同国に亡命した[12]

第三次イリュリア戦争

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第三次イリュリア戦争紀元前168年に行われた戦いである。イリュリアの王ゲンティウス英語版は、紀元前171年に勃発した第三次マケドニア戦争でローマ側の軍勢に加わっていた。しかし紀元前169年になり、突如としてローマに反旗を翻しマケドニア王国ペルセウスに与する。紀元前168年、ゲンティウスは共和政ローマの統治下にあったアポロニアディラキウムの街を破壊するとともに、2名のローマの使節を捕虜とした。ここに第三次イリュリア戦争が勃発する。ゲンティウスはローマの司令官(プロプラエトル)ルキウス・アニキウス・ガッルス率いる軍団に敗れ捉えられ[13]紀元前167年にローマで行われたアニキウス・ガッルスの凱旋式において捕虜として見世物にされた。

参考文献

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  1. ^ Wilkes, J. J. The Illyrians, 1992, p. 120, ISBN 0-631-19807-5, Page 160, "The Roman invasion of Illyria in 229 bc appears to have caught Teuta and the Illyrians completely off guard. As soon as the weather permitted, the queen had ordered south a naval expedition..."
  2. ^ Wilkes, J. J. The Illyrians, 1992, p. 120, ISBN 0-631-19807-5., Page 177, "... who appears to have ruled after 168 BC at Queen Teuta's old stronghold Rhizon (Risan). His silver issues are rare, but bronze coins, without the royal title, occur on Hvar, both ..."
  3. ^ Zock, 99.
  4. ^ a b 宮嵜麻子「ローマ共和政における政治問題としての海賊(1) : 前2世紀末の状況」『国際経営・文化研究』第18巻第2号、国際コミュニケーション学会、2014年3月、79-92頁、CRID 1050564289099917952ISSN 1343-1412 
    宮嵜麻子「ローマ共和政における政治問題としての海賊(2) : ?ミトリダテースと海賊問題」『国際経営・文化研究』第20巻第1号、国際コミュニケーション学会、2015年11月、109-126頁、CRID 1050001339146500224ISSN 1343-1412 
  5. ^ 原田俊彦「前241年から前219年までのローマの法律」『早稻田法學』第87巻第3号、早稲田大学法学会、2012年3月、693-732頁、CRID 1050282677477262336hdl:2065/36184ISSN 0389-0546 
  6. ^ Wilkes, J. J. The Illyrians, 1992, p. 120, ISBN 0-631-19807-5, page 161, "... Gulf of Kotor. The Romans decided that enough had been achieved and hostilities ceased. The consuls handed over Illyria to Demetrius and withdrew the fleet and army to Epidamnus, ..."
  7. ^ Polybius: The Rise of the Roman Empire, Book 6.16, "Demetrius of Pharos ... had broken his treaty with the Republic by sailing beyond Lissus with fifty boats..."
  8. ^ Polybius: The Rise of the Roman Empire, Book 6.16, "...the Romans dispatched Lucius Aemilius with an army to face Demetrius
  9. ^ Wilkes, J. J. The Illyrians, 1992, p. 120, ISBN 0-631-19807-5., Page 163, "Unlike Teuta in 229 BC, Demetrius was prepared for the Roman invasion. He placed a garrison in Dimale (Dimallum), a fortress inland ..."
  10. ^ Public Organization in Ancient Greece: A Documentary Study � by Nicholas F. Jones � 1987, ISBN 0-87169-176-0
  11. ^ Polybius: The Rise of the Roman Empire, Book 6.18, "having accepted Dimale's submission ... the consul then sailed to Pharos to attack Demetrius himself..."
  12. ^ Polybius: The Rise of the Roman Empire, Book 6.19, "Demetrius ... arrived unexpectedly at the court of King Philip of Macedon, where he remained for the rest of his life"
  13. ^ Montagu, John Drogo (2015). Battles of The Greek and Roman Worlds: A Chronological Compendium of 667 Battles to 31 BC From the Historians of the Ancient World. Frontline Books. p. 47. ISBN 1-85367-389-7. https://books.google.co.jp/books?hl=ja&lr=lang_ja