第五十一号型駆潜艇
第五十一号型駆潜艇 | |
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基本情報 | |
種別 |
駆潜艇[2] 駆潜特務艇[3] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
同型艦 | 3隻[2] |
要目 (計画、()内は第53号の値) | |
基準排水量 | 公表値:170英トン[4] |
公試排水量 | 175.0トン[5](180.0トン[5]) |
満載排水量 | 179.28トン[5](189.98トン[5]) |
長さ | 公表値:44.40 m[4] |
全長 |
計画:45.00 m[5] 艦尾改造後:46.0 m[6] |
水線長 |
計画:44.50 m[5] 艦尾改造後:45.5 m[6] |
垂線間長 | 43.20 m[5] |
最大幅 | 4.90 m[5] |
水線幅 | 計画、公表値:4.80 m[5][4] |
深さ | 3.05 m[5] |
吃水 |
公試平均:1.70 m[5](1.73 m[5]) 公表値:1.670 m[4] |
ボイラー | (ホ号艦本式重油専焼缶 2基[7]) |
主機 |
MAN式単動4サイクル・ディーゼル 2基[7] (高低圧タービン減速装置付 2基[7]) |
推進器 |
2軸 × 675 rpm、直径1.380 m[7]、ピッチ1.340 m[8] (2軸 × 750 rpm、直径1.230 m[7]、ピッチ1.296 m[8]) |
出力 | 3,000馬力[5] |
速力 | 計画、公表値:23ノット[5][4] |
航続距離 | 800カイリ / 14ノット[5] |
燃料 | 重油:7.20トン[9](20.20トン[10]) |
乗員 | 竣工時乗員標準:41名[11](42名)[12] |
兵装 |
毘式40 mm単装機銃二型(第53号は三型) 1挺、銃弾2,000発[14] 九四式投射機 2基[15] 三型装填台 2基[15] 投下軌道(6個載) 1条[15] 九一式一型爆雷18個[15] 須式40 cm探照灯 1基[16] |
搭載艇 | 5 m折り畳み式通船 1隻[13] |
ソナー |
九三式一型探信儀[17] 九三式水中聴音機[17] |
第五十一号型駆潜艇(だいごじゅういちごうがたくせんてい、第51号型駆潜艇)は、日本海軍の駆潜艇の艇級(クラス)[2]。 同型3隻[2]。 1940年に類別変更により第五十一号型駆潜特務艇(第51号型駆潜特務艇)となり[3]、 1943年に艇番号変更により第二百五十一号型駆潜特務艇(第251号型駆潜特務艇)と変更された[18]。
計画
[編集]1933年度①計画の第一号型駆潜艇に続き、②計画では大型駆潜艇1隻(後の第三号駆潜艇)と小型駆潜艇3隻(本型)が計画された[19]。 大型駆潜艇は第1号型と同一(後に友鶴事件で設計変更)、小型駆潜艇は新計画となり、基準排水量150英トン、速力20ノット、航続距離500カイリ(14ノット)、40 mm機銃1挺、爆雷18個とされた[19]。 友鶴事件により艦政本部長が交代すると、新艦政本部長は「駆潜艇は少なくとも25ノットが必要」と主張し、新型駆潜艇は公試排水量150トン、速力25ノットに計画変更された[19]。 出力は2軸で3,000馬力が必要と計算されたが、150トンの艇に載せる小型ディーゼルエンジンは国内で製造出来なかった[19]。 小型艦艇に対する復原性能などの技術吸収も兼ねて海外より艦艇の設計を購入し、エンジンは実物を購入することになった[19]。 設計についてはドイツとイギリスに当たり、ドイツの造船所は実現不可能との返答、イギリスではソーニクロフト社のみが応じた[19]。 この設計には後に基本計画番号K6が与えられた[20]。 設計内容はGMやレンジ(復原できる範囲の傾斜角)は要求通りだったが、風圧側面積が大きく重心の高い船となっていて、不採用となった[21]。 海軍艦政本部でこの設計を参考にし、また旧水雷艇雁をタイプシップ(設計の参考にする大きさや目的の似た船)として設計を行った[22]。 基本計画は1936年(昭和11年)末にまとまったが、その間は艦政本部長と軍令部の間で意見が相違し、とりまとめに苦労したという[22]。 その後、主に復原性能の改善で排水量は175トンにまで増え、計画速力は23ノットに低下した[22]。
艦型
[編集]基本計画番号は第51号と第52号がK5A、第53号がK5B[5]。
機関
[編集]機関はソーニクロフト社の設計で使用されていたディーゼルエンジンを採用することになった[22]。 2基をドイツのMAN社から購入し第五十一号駆潜艇に、MAN社からの購入品をもとに三菱重工業横浜船渠と川崎造船所で1基ずつ複製したものを第五十二号駆潜艇にそれぞれ装備することとした[23][24]。 この機関の名称はW10V30/38型1,500馬力高速ディーゼル(海軍制式名「マ式一号過給機付内火機械」)で、単動4サイクル、無気噴霧式、過給器付の10気筒機関で気筒直径300 mm、ストローク380 mmだった[23]。 軽量・高出力の代わりに華奢な機関で[22]、 価格も高く量産には不適当なものだった[25]。 機関を国内で製造した第五十二号駆潜艇は他の2艇(1937年秋竣工)に比べて竣工が大きく遅れる(1939年7月)ことになった。
第五十三号駆潜艇(以下第53号)は量産を考慮して[26] 艦本式タービン2基とホ号艦本式水管缶1基を装備した[27]。 船体の大きさを変えず、性能はほぼ同一の機関を計画するのに苦労したという[28]。 燃料節約のためと高温高圧蒸気の実艦試験の性格を兼ねて[29]、 蒸気圧力45 kg/cm3、蒸気温度400 ℃とし[27]、 のちの島風型駆逐艦以上の高温高圧機関だった。 また主機のタービンは、巡航タービンを無くして巡航時は一方の高圧タービンの排気で他方の低圧タービンを駆動する複雑な構造だった[23]。 建造した大阪鉄工所では高温高圧蒸気機関の製造、艤装の経験が無く、蒸気漏れが各所で多発したと言われている[23]。 第53号の船体は機械据付台や縦通構造の変更も必要となり、外観は51号、52号と似ているが、内容的には全く別の船体となった[27]。 煙突は非対称のホ号艦本式ボイラー1基を搭載した関係で中央から左舷に寄った。 重油タンクを舷側に装備したが、そこからの重油漏れに悩まされたという[27]。 その他に復水器や燃料ポンプなどの補助機械を両舷共通の1つとするなど切り詰めた設計だった[29]。 予備水タンクの量も少なくなり、公試中に燃料より先にボイラー用の真水が無くなることがあったという[29]。
発電機は15 kW・105 Vディーゼル発電機2基を装備した[16]。 第53号は25 kW・105 Vターボ発電機1基と3 kW・105 Vディーゼル発電機1基を装備した[16]。
船体・艤装
[編集]高速のため凌波性が必要であるが、復原性能を考えて乾舷は高く出来ず、艦首に大きなシアを付した[25]。 一方の艦尾は船殻重量削減のために乾舷を減じた[25]。 艦尾形状の特徴として、艦尾端部にナックルを付した改良型のデストロイヤー・スタンの採用で、これはソーニクロフト社の設計から得たものとなる[30]。 ③計画で建造された陽炎型駆逐艦から同様の艦尾形状が採用された[30]。
艦橋は波浪を被ること考えて全閉鎖式とした[25]。 舵取装置は電動式(2馬力[7])を装備し、艦橋から簡易電動操舵を行った[25]。 スペースの関係上(40 mm機銃の操作に邪魔にならないよう)揚錨機械も電動式(7.5馬力[7])となり、小型艇としては高価な装備となった[25]。
主錨は普通型0.2トンを2丁、副錨無し、錨鎖は⌀15×7節(175 m)を2連装備した[13]。 ホーサーとしての鋼索は横付け用に⌀20×75 mを2巻装備した[13]。 麻索は、繋留重要作業用に⌀28×150 mを1巻、専索及雑用に⌀22×100 mを1巻装備した[13]。
兵装
[編集]砲熕兵装は40 mm単装機銃1艇で艦首に装備した[25]。 軍令部は、艦首では波を被る時に使用不能となるため、艦後部の装備を主張した[25]。 このために後方に移設のスペースを用意していたが、実用の際に問題がなく装備位置はそのままだった[25]。
水雷兵装は九四式投射機2基、装填台2基、投下軌道1条を装備、爆雷18個を搭載した[25]。 水中聴音機は艦橋下に設置した[25]。 水中聴音機は発達の過渡期であり区画内に水を張ったが、吃水が浅いこともあり高性能が得られる見込みはなかった[25]。
航海・光学兵装として、一四式1.5 m測距儀1基、8 cm双眼鏡2基を装備した[31]。
無線装置は長短共用受信機2基、中波無線電話機1基、TM式簡便無線電話機1基、超短波送受話器1基を搭載した[17]。 第53号は中波送信機1基、長短共用受信機1基、TM式簡便無線電話機1基、超短波送受話器1基を搭載した[17]。
艦尾改造
[編集]竣工前の完成公試では速力が23ノットに達せず、また旋回性能も不良だった[25]。 このため艦尾を1 m延長し[6]形状を変更、また舵の形状を変更し問題を解決した[25]。
評価
[編集]この型は戦時建造を考えた試作艦だったが[26]、 駆潜艇としては小型過ぎ、機関のディーゼルも高価で量産に適せず、同型艇は②計画で建造された3隻のみで以後建造されなかった[25]。
運用
[編集]竣工後は佐世保防備隊と呉防備隊に所属[32]、 1939年12月からは3隻で佐伯防備隊所属となった[33]。 1940年11月15日駆潜艇が特務艇から艦艇へ移された際に3隻は駆潜特務艇に変更、 第51号型駆潜特務艇に類別された[3]。 1941年12月から3隻とも紀伊防備隊に所属[34]、 第52号、第53号はその後に横須賀防備隊所属となった[35]。 1943年艇番号に200を加え、 第251号型駆潜特務艇に類別[18]、 1944年に除籍[36][37]、 雑役船に変更された[38][39]。
艦歴
[編集]第五十一号駆潜艇
[編集]- 1936年12月14日、鶴見製鉄造船で起工[4]。同日特務艇類別等級の改正、第51号型駆潜艇に類別される[2]
- 1937年3月4日、信号符字:JVXD[40]、(無線電信)略符号:JVXD[41]を付与
- 1937年12月1日現在、本籍:佐世保鎮守府、所属:佐世保防備隊[32]
- 1938年12月15日現在、本籍:呉鎮守府、所属:呉防備隊[42]
- 1939年12月25日現在、本籍:呉鎮守府、所属:佐伯防備隊[33]
- 1940年11月15日 駆潜特務艇に類別変更、第51号駆潜特務艇となる
- 1941年12月1日より略符号(信号符字)はJIXQとなる[43]
- 1943年5月20日 第251号駆潜特務艇に改名、第251号型駆潜特務艇に類別[18]
- 1944年8月28日、紀伊防備隊からの除かれ[44]、大阪警備府より除籍[37]。雑役船に編入、曳船(駆潜艇型 175瓲)に指定、船名を「公称第1658号」に改名、海軍対潜学校所属[39]
- 終戦時浦賀で残存、その後の消息は不明[45]
第五十二号駆潜艇
[編集]- 1936年12月14日、鶴見製鉄造船で起工[4]。同日特務艇類別等級の改正、第51号型駆潜艇に類別される[2]
- 1937年3月4日、信号符字:JVYD[40]、(無線電信)略符号:JVYD[41]を付与
- 8月25日、進水[4]
- 1938年1月15日 艤装員長退任、後任の発令無し[46]。1月頃工事中止、艤装員事務所を一時閉鎖[47]
- 1939年5月15日 艤装員長発令[50]
- 1940年11月15日 駆潜特務艇に類別変更、第52号駆潜特務艇となる
- 1941年12月1日より略符号(信号符字)はJIYQとなる[43]
- 1943年4月1日、所属は横須賀防備隊に変更される[35]
- 5月20日 第252号駆潜特務艇に改名、第251号型駆潜特務艇に類別[18]
- 1944年2月15日、横須賀防備隊から除かれ[52]、本籍大阪警備府より除籍[36]。雑役船に編入、曳船(駆潜艇型 175瓲)に指定、船名を「公称第1650号」に改名、海軍機雷学校所属[38]
- 終戦時浦賀で残存、その後の消息は不明[45]
第五十三号駆潜艇
[編集]- 1936年12月14日、特務艇類別等級の改正、第51号型駆潜艇に類別される[2]
- 1937年1月9日、大阪鉄工所で起工[4]
- 1939年12月25日現在、本籍:呉鎮守府、所属:佐伯防備隊[33]
- 1940年11月15日 駆潜特務艇に類別変更、第53号駆潜特務艇となる
- 1941年12月1日より略符号(信号符字)はJIZQとなる[43]
- 1943年4月1日、所属は横須賀防備隊に変更される[35]
- 5月20日 第253号駆潜特務艇に改名、第251号型駆潜特務艇に類別[18]
- 1944年2月15日、横須賀防備隊から除かれ[52]、大阪警備府より除籍[36]。雑役船に編入、曳船(駆潜艇型 175瓲)に指定、船名を「公称第1651号」に改名、海軍機雷学校所属[38]
- 終戦時浦賀で残存[45]
- 1946年8月 浦賀で浸水により沈没[45]
脚注
[編集]- ^ #写真日本の軍艦第13巻p.157、上写真の解説
- ^ a b c d e f g 昭和11年12月14日付 海軍内令 第503号。#海軍制度沿革8(1971)p.110、昭和11年12月14日内令第503号
- ^ a b c #S15.12.25内令提要原稿/艦船(1)画像10、特務艇類別等級
- ^ a b c d e f g h i j k l m n #S14.12.25内令提要原稿/機密保護画像7、艦船要目公表範囲
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p #一般計画要領書(駆潜艇)p.2の計画値。K5A「註.上記計画ハ昭和十一年五月十二日現在ニ於ケル基本計画当初ノモノヲ示ス」、K5B「註.上記計画ハ昭和十一年十二月二十四日艦本機密決第二九二号ニ依ル基本計画当初ノモノヲ示ス」
- ^ a b c #海軍造船技術概要(1987)上巻pp.637-638、51号型主要要目
- ^ a b c d e f g #一般計画要領書(駆潜艇)p.14
- ^ a b #海軍造船技術概要(1987)下巻p.1717
- ^ #一般計画要領書(駆潜艇)p.22、K5A第51号艦型駆潜艇、重量比較表
- ^ #一般計画要領書(駆潜艇)p.23、K5B第53号駆潜艇、重量比較表
- ^ #一般計画要領書(駆潜艇)p.16、准士官以上3人、下士官兵38人。「上記計画ハ各建造当時ノモノヲ示ス」
- ^ #海軍制度沿革10-2(1972)pp.887-888、昭和12年7月20日内令第347号、驅潜艇乗員標準及救難船乗員標準改定。士官1人、特務士官1人、准士官1人、下士官13人、兵25人。
- ^ a b c d #一般計画要領書(駆潜艇)p.18
- ^ #一般計画要領書(駆潜艇)p.4
- ^ a b c d #一般計画要領書(駆潜艇)p.6
- ^ a b c #一般計画要領書(駆潜艇)p.10
- ^ a b c d #一般計画要領書(駆潜艇)p.12
- ^ a b c d e #S18.5-6内令2巻/昭和18年5月(5)画像50、昭和18年5月20日内令第980号
- ^ a b c d e f #海軍造船技術概要(1987)上巻p.634
- ^ #日本軍艦建造史p.370、計画番号表
- ^ #海軍造船技術概要(1987)上巻pp.634-635
- ^ a b c d e #海軍造船技術概要(1987)上巻p.635
- ^ a b c d 阿部安雄「技術面から見た日本海軍護衛艦艇の発達 2.機関」#日本海軍護衛艦艇史(1996)pp.156-157
- ^ 丸スペシャル 『駆潜艇・哨戒艇』、p. 32。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o #海軍造船技術概要(1987)上巻p.636
- ^ a b #海軍造船技術概要(1987)下巻p.1718
- ^ a b c d #海軍造船技術概要(1987)上巻p.637
- ^ #海軍造船技術概要(1987)下巻pp.1718-1719
- ^ a b c #海軍造船技術概要(1987)下巻p.1719
- ^ a b #海軍造船技術概要(1987)上巻p.638
- ^ #一般計画要領書(駆潜艇)p.8、航海及光学兵装(一)。
- ^ a b c #S12.12.01内令提要原稿/艦船画像8、特務艇本籍及所属
- ^ a b c d #S14.12.25内令提要原稿/艦船(1)画像18、特務艇本籍及所属
- ^ a b c d #S16.11-12内令4巻/昭和16年12月(2)画像7-9、昭和16年12月10日内令第1621号
- ^ a b c #S18.1-4内令1巻/昭和18年4月(1)画像30,38-39、昭和18年4月1日内令第548号「特務艇ノ本籍及所属別表ノ通改正ス」
- ^ a b c #自S19.1至19.7内令/昭和19年2月(2)画像25-26、昭和19年2月15日内令第329号
- ^ a b #S19.8-9秘海軍公報/9月(1)画像9、昭和19年8月28日内令第2005号
- ^ a b c 昭和19年2月15日付 海軍大臣官房 官房軍第185号。
- ^ a b 昭和19年8月28日付 海軍大臣官房 官房軍第1042号。
- ^ a b c #S12達/3月画像1、昭和12年3月4日達第25号
- ^ a b c #S12達/3月画像1、昭和12年3月4日達第24号
- ^ #S13.12.25内令提要原稿/艦船(1)画像16、特務艇本籍及所属。昭和15年12月15日内令第1148号「特務艇ノ本籍及所属別表ノ通改正ス」
- ^ a b c #S16.7-12達/12月画像1,12、達第116号附表第一
- ^ #S19.8-9秘海軍公報/9月(1)画像9、昭和19年8月28日内令第2004号
- ^ a b c d 世界の艦船 『日本海軍護衛艦艇史』、p. 116。
- ^ 昭和13年1月15日付 海軍辞令公報 号外 第122号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072073300 で閲覧可能。
- ^ a b 昭和13年4月9日付 海軍公報 (部内限) 第2882号。
- ^ 昭和13年7月30日付 海軍辞令公報 (部内限) 号外 第218号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072074100 で閲覧可能。
- ^ a b 昭和14年5月26日付 海軍公報 (部内限) 第3217号。
- ^ 昭和14年5月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第335号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072075700 で閲覧可能。
- ^ 昭和14年7月25日付 海軍内令 第564号。
- ^ a b #自S19.1至19.7内令/昭和19年2月(2)画像25、昭和19年2月15日内令第328号
- ^ #写真日本の軍艦第13巻p.158下の写真解説
参考文献
[編集]- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『昭和12年 達 完/3月』。Ref.C12070101700。
- 『昭和16年7月~12月 達/12月(1)』。Ref.C12070111200。
- 『昭和16年11~12月 内令 4巻止/昭和16年12月(2)』。Ref.C12070154700。
- 『昭和18年1月~4月内令1巻/昭和18年4月(1)』。Ref.C12070176200。
- 『昭和18年5月~6月内令2巻/昭和18年5月(5)』。Ref.C12070177600。
- 『自昭和19年1月 至昭和19年7月 内令/昭和19年2月(2)』。Ref.C12070194500。
- 『昭和19年8月~9月 秘海軍公報/9月(1)』。Ref.C12070496600。
- 『昭和12年12月1日現在 10版 内令提要追録第3号原稿/巻3 追録/第13類 艦船』。Ref.C13071975200。
- 『昭和14年12月25日現在 10版 内令提要追録第6号原稿/巻1 追録/第6類 機密保護』。Ref.C13071986300。
- 『昭和13年12月25日現在 10版 内令提要追録第4号原稿/巻3 追録/第13類 艦船(1)』。Ref.C13071979700。
- 『昭和14年12月25日現在 10版 内令提要追録第6号原稿/巻2 追録/第13類 艦船(1)』。Ref.C13071987300。
- 『昭和15年12月25日現在 10版 内令提要追録第8号原稿/巻3 追録/第13類 艦船(1)』。Ref.C13071993800。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 『日本海軍護衛艦艇史』 世界の艦船 1996年2月号増刊 第507集(増刊第45集)、海人社、1996年2月。ISBN 4-905551-55-2。
- 牧野茂、福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4。
- 丸スペシャル 日本海軍艦艇シリーズ No. 49 『駆潜艇・哨戒艇』、潮書房、1981年
- 雑誌「丸」編集部 編『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』光人社、1990年8月。ISBN 4-7698-0463-6。(丸スペシャルを艦種ごとにまとめた書物)