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準王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
箕準から転送)
じゅんおう

準王
職業 箕子朝鮮の第41代王
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準王
各種表記
ハングル 준왕
漢字 準王
日本語読み: じゅんおう
2000年式
MR式
Jun Wang
Chun Wang
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準王(じゅんおう)または箕準(きじゅん、生没年不詳)は、箕子朝鮮の第41代の王(在位:紀元前220年 - 紀元前195年)。『三国遺事』に記述がみえる王である。

概要

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から亡命した衛満をかくまっていたが、衛満が我ら亡命者が朝鮮を護ると準王にとりいり、朝鮮西部に亡命者コロニーを造った[1]。そして、漢(前漢)が攻めてきたので準王を護るという偽りの口実で、王都に乗りこんできた[2]。準王と衛満の間で戦になったが、『魏略』は「準は満と戦ったが、勝負にならなかった」と記している[2]。その結果、衛満に国を簒奪された(衛氏朝鮮)。

準王は、衛満王権を簒奪されると、南走して辰国へと逃亡し、「韓王」として自立した[3]

史料

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庚辰,子解仁立,一名山韓。是歲,爲刺客所害。辛巳,子水韓立。壬午,燕倍道入寇,攻安寸忽,又入險瀆,須臾人箕代以子弟五千人來助戰事,於是軍勢稍振,乃與眞、番二韓之兵夾擊,大破之,又分遣偏師將戰於機城之南,燕懼,遣使乃謝,以公子爲質。戊戌,水韓薨,無嗣,於是箕詡以命代行軍令,燕遣使賀之。是歲,燕稱王,將來侵,未果,箕代亦承命正號爲番朝鮮王,始居番汗城,以備不虞。箕詡薨,丙午,子箕煜立。薨,辛未,子箕釋立。是歲,命州郡擧賢良,一時被選者二百七十人。己卯,番韓親耕于郊。乙酉,燕遣使納貢。箕釋薨,庚戌,子箕潤立。薨,己巳,子箕丕立。初,箕丕與宗室解慕漱密有易璽之約,勤贊佐命,使解慕漱能握大權者,惟箕丕其人也。箕丕薨,庚辰,子箕準立。丁未,爲流賊衛滿所誘,敗,遂入海而不還。

庚辰、子の解仁立つ。一名を山韓という。是歳、刺客の為に害される所と為る。辛巳、子の水韓立つ。壬午、燕は道に倍き入寇し、安寸忽を攻め、又険涜に入る。須臾人箕詡は子弟五千人を以て来たり戦事を助く。是に於いて軍勢は稍く振う。乃ち真番二韓の兵と挟撃し、之を大破す。又偏師を分けて遣わし、将に機城の南に戦う。燕は懼れて使いを遣わし謝す。公子を以て質と為す。戊戌、水韓薨る。嗣無し。是に於いて箕詡は命を以て軍令を代行す。燕、使いを遣わし之を賀す。是歳、燕は王を称し、将に来たりて侵さんとするが、未だ果たさず。箕詡は亦、命を承り正に号して番朝鮮王と為る。始め番汗城に居す。以て不慮に備える。箕詡薨る。丙午、子の箕煜立つ。薨る。辛未、子の箕釈立つ。是歳、州郡に命じて賢良を挙げしむ。一時に選ばれる者二百七十人。巳卯、番韓は親ら郊に耕す。乙酉、燕は使いを遣わし貢を納む。箕釈薨る。庚戌、子の箕潤立つ。薨る。己巳、子の箕否立つ。初め箕否は宗室の解慕漱と密かに易璽の約有り。賛佐を勤め、解慕漱をして能く大権を握らしむるは惟、箕否その人なり。箕否薨る。庚辰、子の箕準立つ。丁未、流賊衛満の為に誘われ敗られる所となり、遂に海に入り而して還らず[4] — 桓檀古記、三韓管境本紀
戊戌,須臾人箕代兵入番韓以據,自稱番朝鮮王。

戊成、須臾人箕詡は兵を番韓に入れ、以て拠し、自ら番朝鮮王を称す[5] — 桓檀古記、馬韓世家下
壬戌五十七年,四月八日,解慕漱降于熊心山,起兵,其先槀離國人也。癸亥五十八年,…遂棄位入山,修道登仙。於是五加共治國事六年。先是,宗室大解慕漱密與須臾約,襲據故都白岳山,稱爲天王郞,四境之內,皆爲聽命。於是封諸將,陞須臾侯箕丕爲番朝鮮王,往守上下雲障,蓋北夫餘之興始此。而高句麗乃解慕漱之生鄕也,故亦稱高句麗也。

壬戌(紀元前239年)、解慕漱は熊心山にやってきて兵を起こした。その先は槀離国人である。癸亥(紀元前238年)、…古列加王は遂いに位を棄て山に入り修道する。ここに於いて五加(五部族)は国事を共治すること六年。是れより先、宗室大解慕漱は密かに須臾(番朝鮮)と約束をして檀君の地を襲い、故都白岳山に據り、称して天王郎となる。四境の内は皆命令を聴くようになる。ここに於いて諸将を封じ、須臾侯箕丕を陞て番朝鮮王となす。往きて上下雲障を守らしむ。蓋し北夫餘の興りはこれより始まる。而して高句麗は乃ち解慕漱の生郷なり。故、亦高句麗と称す[6] — 桓檀古記、檀君世紀
丁未,爲流賊衛滿所誘,敗,遂入海而不還。

丁未、流賊衛満の為に誘われ敗られる所となり、遂に海に入り而して還らず[7] — 桓檀古記、番韓世家下
丙午四十五年,燕盧綰叛漢,入凶奴。其黨衛滿求亡於我,帝不許,然帝以病不能自斷,番朝鮮王箕準多失機,遂拜衛滿爲博士,劃上下雲障而封之。是歲冬,帝崩,葬于熊心山東麓,太子慕漱離立。丁未元年,番朝鮮王箕準…爲流賊所敗,亡入于海而不還。

丙午(解慕漱)四十五年(紀元前195年)、燕の盧綰は漢に背き匈奴に入る。その黨の衛満は我(夫余)に亡命してくることを求めた。帝は聞き入れない。然るに帝は病気であり、自ら断ることができない。番朝鮮王箕準は多く機を失い、遂に衛満を拝して博士となし、上下雲障を劃いて衛満に与えた。この歳の冬、帝は崩じた。熊心山の東麓に埋葬する。太子の慕漱離が立つ。丁未(紀元前194年)元年、番朝鮮王箕準は…流賊のために敗られ亡げて海に入り而して還えらず[8] — 桓檀古記、北夫餘紀

箕氏の系図を図示すると、「箕詡→箕煜→箕釈→箕潤→箕否→箕準」となり、箕詡の時に番朝鮮王となる。真韓・番韓の二韓はの侵攻に困っており、それを救ったのが箕詡である。箕詡は須臾人といい、箕子朝鮮人であり、韓人ではない[5]。箕子朝鮮の箕詡が番韓を併合して番朝鮮王となる[5]

箕詡は軍を番韓に入れ、そこに拠り、番朝鮮王を称したとあり、箕詡は番韓を侵略して王になった。箕詡は箕子朝鮮の後裔であり、箕子朝鮮が番韓を併合して番朝鮮を称した。箕詡が番韓を併せて番朝鮮を樹立したのは紀元前323年である[5]紀元前194年、箕準は燕の亡命者である衛満に編され、伐たれて、韓地へ逃げ、番朝鮮は滅亡する。

考証

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衛満に倒された箕子朝鮮の王・準王が南の馬韓に逃れ、「馬韓王」になったという記録がある[9]

魏志』韓条に「侯準が王と称したが、燕国の亡人衛満に攻撃を受け国を脱した。彼は左右将軍と宮人を連れて、海を越えてに住み着き自ら韓王と称した。魏略に曰く、彼の子孫は国に残ってそのまま韓氏姓を使用した。準は海外で王となって以降、朝鮮と往来しなかった。その後、絶滅してしまったが、今、韓人の中にはなお彼の祭祀を信奉する人がいる」と記録されている[10]。準王一派が朝鮮半島に南下したのは、衛満の箕子朝鮮攻奪にはじまるため、紀元前194年から紀元前180年の間である。朝鮮から海を越え「韓王」と称したが、「韓」は南部朝鮮半島であり、三韓前期の中心地である中西部である。新文物を備えた準王一派は、南部朝鮮半島に物質文化の変動を引き起こし、物質文化の波及経路は海路に沿ってなされた傾向をみせる[10]。物質文化は、銅鏡粗文鏡から細文鏡に発達し、青銅器は異形青銅器・銅鈴などの儀器から銅矛銅戈のような武器銅斧銅鑿・銅ヤリガンナのような実用品に転換した。その後朝鮮半島に鉄器が初現し、青銅実用具は漸次、鉄器に代替される。鉄器文化の初現は移住民の準王一派の南下によって登場した[10]。『魏志』東夷伝によると、準王は「韓王」を称したが、準王一派が南下し、馬韓を攻撃し、国を建てた可能性や権力基盤を得るために馬韓諸国と局地的な戦闘を行った可能性があるが、移住民が馬韓の文化を破壊したり、代替する現象はみられないため、馬韓全体についての討伐を敢行する意志はなかったとみられる[10]。準王が一派を為すほどの巨大な勢力がを越えてきたのであれば、相当規模の海上船団を率いた可能性が高く、海上船団を利用し、朝鮮半島南部海岸一帯の文化を変化させた。朝鮮式銅剣文化と新鉄器文化に代表される三韓文化は海路に沿って湖西 - 湖南を経て移動した[10]。忠州虎岩洞遺跡1号積石木棺墓において、細形銅剣7点、多鈕細文鏡破鏡1点、銅斧・銅鑿・銅ヤリガンナの組み合わせが出土したが、この文化様相は馬韓の特徴的青銅器の組み合わせであるため、朝鮮半島南部内陸まで馬韓の文化要素が確認できる[10]。一方、準王一派が保有する多鈕細文鏡と鉄器文化がみられないため、文化伝播経路から辰韓弁韓に該当する嶺南海岸一帯は排除され、『魏志』東夷伝に「準王一派が絶滅した」という記事から推測して、準王一派は馬韓に一次的に定着したものであり、その後同化したと判断される[10]

主要年表

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箕詡は「始め番汗城に居す」とある。『魏略』には「至満番汗為界」とあり、番汗城は満番汗のこととみられ、『契丹古伝』には曼灌幹城と書かれているが、碣石山から山海関の辺りにかけての地域とみられる[11]。箕詡は番朝鮮を樹立した後も箕子が封じられたところに住み続けている。紀元前284年になると、燕の秦開の攻撃を受けて、「東胡は千余里谷郤く」とある。東胡とは箕子朝鮮であり、番朝鮮のことである。『契丹古伝』には「」と書かれている。箕釈は燕の秦開に追われて千里退き、新しい居住地は大凌河の東の医巫閭山付近の真番朝鮮である[11]

子孫

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百済官吏である答㶱春初は、準王の子孫にあたる[12][13]。準王の孫の時に百済帰化していた殷人である[12][13]

脚注

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  1. ^ 礪波護武田幸男『隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論社〈世界の歴史 (6)〉、1997年1月、265頁。ISBN 978-4124034066 
  2. ^ a b 礪波護武田幸男『隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論社〈世界の歴史 (6)〉、1997年1月、266頁。ISBN 978-4124034066 
  3. ^ 簡江作韓國歷史與現代韓國台湾商務印書館中国語版、2005年8月1日、5頁。ISBN 9789570519891https://books.google.co.jp/books?id=yW9Lyom56T4C&pg=PA5=onepage&q&f=false#v=onepage&q&f=false 
  4. ^ 佃収『倭人のルーツと渤海沿岸』星雲社〈「古代史の復元」シリーズ〉、1997年12月1日、173頁。ISBN 4795274975 
  5. ^ a b c d 佃収『倭人のルーツと渤海沿岸』星雲社〈「古代史の復元」シリーズ〉、1997年12月1日、174頁。ISBN 4795274975 
  6. ^ 佃収『倭人のルーツと渤海沿岸』星雲社〈「古代史の復元」シリーズ〉、1997年12月1日、233頁。ISBN 4795274975 
  7. ^ 佃収『倭人のルーツと渤海沿岸』星雲社〈「古代史の復元」シリーズ〉、1997年12月1日、176頁。ISBN 4795274975 
  8. ^ 佃収『倭人のルーツと渤海沿岸』星雲社〈「古代史の復元」シリーズ〉、1997年12月1日、234頁。ISBN 4795274975 
  9. ^ 伊藤一彦『7世紀以前の中国・朝鮮関係史』法政大学経済学部学会〈経済志林 87 (3・4)〉、2020年3月20日、169頁。 
  10. ^ a b c d e f g 安海成 (2005年6月). “三韓時代韓半島南部と東アジア社会の変動”. 長崎県埋蔵文化財センター. p. 25-26 
  11. ^ a b 佃収『倭人のルーツと渤海沿岸』星雲社〈「古代史の復元」シリーズ〉、1997年12月1日、175頁。 
  12. ^ a b 飯田武郷日本書紀通釈大鐙閣〈第五〉、1927年、165頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933892/165 
  13. ^ a b 大日本史 第七巻吉川弘文館〈民族志職官志〉、1912年、248頁https://www.google.co.jp/books/edition/大日本史/uL5gJV1cOjAC?hl=ja&gbpv=1&pg=PP248&printsec=frontcover 

参考文献

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先代
宗統王
箕子朝鮮の第41代王
前220年 - 前195年
次代
先代
馬韓の第1代王
? - 紀元前193年
次代
康王