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篠崎三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
篠崎 三郎
名前
カタカナ シノサキ サブロウ
ラテン文字 Shinosaki Saburo
基本情報
国籍 日本の旗 日本
選手情報
ポジション FW
ユース
日本の旗 慶應義塾大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
日本の旗 慶應BRB
代表歴
1940[1] 日本の旗 日本 1 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

篠崎 三郎(しのさき さぶろう、生没年不明)は、日本の元サッカー選手。大学生の時にサッカー日本代表としての出場経験があり、現役時代のポジションはフォワード慶應義塾大学経済学部卒業。

選手の経歴

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篠崎は慶應義塾体育会ソッカー部に在籍し、1937年の全日本蹴球選手権大會(現:天皇杯全日本サッカー選手権大会)で、慶應義塾大学の初優勝を成し遂げた。彼はまた、慶應義塾大学の選手と卒業生で構成される母校の慶應BRBでもプレイし、津田幸男二宮洋一笠原隆と共に、1939年と1940年の天皇杯でも優勝した(以後、天皇杯は戦争で1941-1945年まで中断となる)。

代表歴

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1940年6月16日、慶應義塾大学に在籍する学生の時に、サッカー日本代表の選手として、フィリピン代表との試合に初出場した[1]。この試合は日本にとって1936年ベルリンオリンピック以降で最初の試合であり、第二次世界大戦の影響により1940年代に行われた唯一の日本の国際Aマッチ試合である。

出場大会

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試合数

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  • 国際Aマッチ 1試合 0得点(1940)[1]


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1940 1 0 ? ? ? ?
通算 1 0 ? ? ? ?

出場

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1940年06月16日 日本の旗兵庫県 甲子園南運動場  フィリピン ○1-0 竹腰重丸 奉祝東亜競技大会

脚注

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外部リンク

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