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桜井京子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
糸浦柳子から転送)
さくらい きょうこ
桜井 京子
本名 池田 善子 (いけだ よしこ)
別名義 糸浦 柳子 (いとうら りゅうこ)
生年月日 (1912-12-02) 1912年12月2日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市日本橋区葺屋町(現在の東京都中央区日本橋人形町
身長 154.5cm
職業 女優
ジャンル 劇映画時代劇剣戟映画現代劇サイレント映画トーキー
活動期間 1927年 - 1938年
主な作品
涙恨
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桜井 京子(さくらい きょうこ、1912年12月2日 - 没年不詳)は、日本の女優である[1][2][3][4][5]。本名池田 善子(いけだ よしこ)、旧芸名糸浦 柳子(いとうら りゅうこ)[1][2]。身長は5尺1寸(約154.5センチメートル)、体重は非公表である[1]

人物・来歴

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1912年大正元年)12月2日東京府東京市日本橋区葺屋町に生まれる[1][2]

旧制・千代田高等女学校(現在の武蔵野大学附属千代田高等学院)に進学するも、1927年(昭和2年)に中途退学し、同年2月、満14歳で松竹蒲田撮影所に入社した[1][2]。同年10月、入社早々に松竹下加茂撮影所に異動になり、「糸浦 柳子」の芸名を名乗って、同撮影所と製作提携をしていた衣笠貞之助が主宰する衣笠映画聯盟の製作、山崎藤江の監督による『天保悲剣録』に出演して、映画界にデビューした[1][2][3]。翌1928年(昭和3年)夏には、日活太秦撮影所に移籍し、「桜井 京子」と名を変えて、同年8月26日に公開された吉本清濤監督の『残されしもの』に出演している[3][5]

1933年(昭和8年)には、東活映画社を母体として東京・調布に設立された日本映画(のちの日活多摩川撮影所、現在の角川大映撮影所)に、映画監督の志波西果とともに移籍し、志波の監督作『旅合羽だんだら染』に出演する[2][3]。同社は短命に終わり、志波とともに同年、朝日映画連盟に移籍するが、満20歳にして起こした志波との恋愛スキャンダルのために同社を離れることになる[2]。同年夏には、京都の日活系トーキーの新会社太秦発声映画に入社している[2][3]

1935年(昭和10年)の初めに極東映画に移籍、仁科熊彦監督の『益満休之助 比叡の巻』、下村健二監督の『益満休之助 江戸の巻』、同じく『益満休之助 完結篇』に出演する[3][4]。同社は、翌1936年(昭和11年)に大阪府南河内郡古市町白鳥園(現在の同府羽曳野市翠鳥園)へと製作拠点を移転したが、俳優の羅門光三郎市川寿三郎綾小路絃三郎大塚田鶴子ら、監督の下村健二、園池成男(古海卓二)、児井秀男(のちの児井英生)が甲陽撮影所に残留、同年5月に甲陽映画を設立しており、大塚も彼らとともに甲陽映画に移籍した[3][4]。甲陽映画は、1937年(昭和12年)4月、配給提携先のマキノトーキー製作所とともに財政が悪くなり、同年5月には解散した[6]

同社の解散の後に、羅門光三郎とともに今井映画製作所に移籍するが、『快闘 富士の男伊達』をもって引退した[2]。1年後に、皇国文化映画協会の映画『お産と民俗』に出演しているが、同作以降の出演歴が不明である[3][4]。時代は第二次世界大戦に突入し、その後の消息はわからない。没年不詳

フィルモグラフィ

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すべてクレジットは「出演」である[3][4]。公開日の右側には役名、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[7][8]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

衣笠映画聯盟・松竹下加茂撮影所

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特筆以外すべて製作は「衣笠映画聯盟松竹下加茂撮影所」、配給は「松竹キネマ」である[3]。すべて「糸浦柳子」名義[3]。すべて「サイレント映画」である[3]

日活太秦撮影所

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特筆以外すべて製作は「日活太秦撮影所」、配給は「日活」である[3][5]。以降すべて「桜井京子」名義[3][5]

極東映画

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特筆以外すべて製作・配給は「極東映画」である[3]

甲陽映画

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特筆以外すべて製作は「甲陽映画」、配給は「千鳥興行」のちに「マキノトーキー製作所」である[3]

配給千鳥興行
  • 旅と春風』 : 監督田丸重雄、製作マキノトーキー製作所、配給千鳥興行、サウンド版、1936年5月22日公開
  • あばれ長脇差』 : 監督児井秀男(児井英生)、1936年7月8日公開
  • 四谷怪談』 : 監督園池成男、1936年7月23日公開 - 妻お岩・お袖
  • 奇傑黒鷲 前篇』 : 監督下村健二、1936年8月14日公開 - おとよ
  • 柳生二蓋笠』 : 監督高見定衛、1936年8月22日公開 - 但馬守愛妾お多摩、46分尺の16mmフィルムが現存(NFC所蔵[8]
  • 奇傑黒鷲 後篇』 : 監督下村健二、1936年8月29日公開
  • 侠骨幡随院』(『侠骨番随院』) : 監督園池成男、1936年9月5日公開 - 長兵ヱ女房おきん、39分尺の16mmフィルムが現存(NFC所蔵[8]
配給マキノトーキー製作所

脚注

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  1. ^ a b c d e f 映画世界社[1928], p.2-3.
  2. ^ a b c d e f g h i 桜井京子jlogos.com, エア、2012年12月4日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 桜井京子日本映画データベース、2012年12月4日閲覧。
  4. ^ a b c d e 桜井京子、日本映画情報システム、文化庁、2012年12月4日閲覧。
  5. ^ a b c d 桜井京子日活データベース、2012年12月4日閲覧。
  6. ^ 柳生二蓋笠マツダ映画社、2012年12月4日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g 桜井京子、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月4日閲覧。
  8. ^ a b c d e f 櫻井京子、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月4日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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