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紀信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
紀成から転送)

紀 信[1](き しん、? - 紀元前206年?/紀元前204年?)は、中国末の武将劉邦に仕えた。

概要

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紀元前207年鴻門の会で、劉邦が項羽から逃れた際に、樊噲夏侯嬰靳彊らとともに参軍として劉邦を護衛した[2]

紀元前204年の夏6月に、項羽率いる十万の軍勢が滎陽城の漢軍を包囲した(滎陽の戦い)。食糧が尽き落城寸前に陥った時に、陳平は劉邦に対して、紀信が劉邦に扮して楚に降服するふりをして、その隙に劉邦が逃亡する策(金蝉脱殻の計)を進言した。紀信はその献策を受け容れて、まもなく劉邦は陳平ら数十騎と共に滎陽城を脱出した。囮となった紀信は項羽によって火刑に処された[2][3]

宋代忠佑安漢公元代輔徳顕忠済王明代忠烈侯の諡号などを贈られている。

脚注

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  1. ^ 漢書』高帝紀では、紀信ではなく「紀成」とされ、鴻門の会では『史記』項羽本紀同様に他の武将とともに劉邦を護衛した。また『漢書』高恵高后文功臣表第四では「紀城」とされ、劉邦に従軍して三秦を平定した。漢王朝が成立されるとその子の紀通(後の襄平侯)が後を継いだ、と記されている。さらに『史記』高祖功臣侯者年表第六では、紀元前206年秋に上将軍韓信に従って、好畤で雍王章邯の弟の章平中国語版と姚卬と戦って戦死したと記されている。これは『史記』項羽本紀、『漢書』高帝紀第一上の記述と矛盾する。
  2. ^ a b 『史記』項羽本紀、『漢書』高帝紀第一上による。
  3. ^ 紀元前180年秋に呂氏の専横を防がんとした太尉周勃に旌節を授け、これを補佐した上記の紀通は『史記』張晏中国語版注では「紀信の子」と述べているが、『漢書』が引く晋灼注および顔師古注では「紀成の子」であり、「紀信の子」であることは否定している。さらに『資治通鑑』が引く胡三省注では「紀成は紀信の別名ではないか」と述べている。