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義成公主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
義成公主
突厥の可汗夫人
在位 599年 - 630年

死去 630年
配偶者 啓民可汗
  始畢可汗
  処羅可汗
  頡利可汗
父親 楊諧
楊善経
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義成公主(ぎせいこうしゅ、? - 630年)は、宗室で、父は楊諧、弟は楊善経[1]と伝わるが、と隋の皇室との親族関係は不詳である。

概要

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599年突厥啓民可汗の妻の安義公主が亡くなったため、楊堅は、彼女を公主として啓民河汗に嫁がせた。啓民可汗が亡くなると、レビラト婚に基づいてその子の始畢可汗に嫁いだ。

ある日、始畢可汗が隋を遠征しようと計画をした際に、彼女はひそかに煬帝に使者を派遣して、このことを知らせた。後に始畢可汗が逝去すると、その弟の処羅可汗に嫁いだのである。処羅可汗が逝去するとその弟の頡利可汗の妻となり、可汗夫人(可賀敦)として地位を保った。

618年に煬帝が配下の宇文化及に殺害され、李淵が蜂起すると、中原の状況は大いに変わった。619年に宇文化及らが竇建徳に敗れて斬首されると、竇建徳は突厥にいる義成公主にその首級を送り彼女を喜ばせた。

やがて、李淵が中原を制覇して、唐の時代を迎えると彼女はこれに不快感を示した。同時に煬帝の皇后であった蕭皇后が孫の楊政道と突厥に逃れると、彼女はこれを受け容れた。以後、彼女は夫の頡利可汗を唆して、唐と幾度も争った。

630年、太宗李世民は、武将の李靖に1万騎を授けて突厥討伐を命じた。激戦の末に頡利可汗は捕虜にされ、義成公主は処刑された。

脚注

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  1. ^ 新唐書』第一百四十上 突厥上列伝

参考文献

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  • 岡﨑由美・王敏 『中国歴代皇帝人物事典』 河出書房新社、1999年