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臼杵鑑速

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
臼杵鑑景から転送)
 
臼杵 鑑景 / 鑑速
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正17年(1520年)?
死没 天正3年5月8日1575年6月16日
改名 鑑景(初名)→鑑速
戒名 富春院殿威翁宗勢居士
官位 四郎左衛門尉越中
主君 大友義鑑義鎮(宗麟)
氏族 臼杵氏
父母 臼杵長景
兄弟 鑑栄鑑続、養孝院(立花道雪継母)、鑑速鑑定鑑良鎮続鎮氏鎮順統光
高木胤秀の娘
統景大友義鑑室、吉弘鎮信室、宗像氏貞室、
養女戸次親繁室(実戸次親家の女)
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臼杵 鑑速(うすき あきはや)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大友氏の家臣。

生涯

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臼杵氏豊後国大友氏の庶流戸次氏の流れを汲み、大友氏の一族に当たる。

初めは大友義鑑に仕え、元服の際には兄の鑑栄鑑続同様、義鑑から偏諱(「鑑」の字)を賜った上、父・長景からも一字をもらい鑑景(あきかげ)と名乗る。後に鑑速に改名した。

義鑑亡き後はその子・義鎮(宗麟)に仕え、次兄の鑑続と共に外交面で大いに活躍した。義鎮の元服の際の室町幕府将軍足利義晴の一字拝領、豊前国筑前国を初めとする守護職の継承などといった幕府との交渉、また安芸国毛利氏といった近隣諸国、さらに影響下にある国人達との交渉などは、吉岡長増と鑑速が行なっている。長増没後は薩摩国島津氏と単独交渉している。また、軍事面においても、肥後国の菊池氏や毛利氏との合戦にも積極的に従軍して武功を挙げる等活躍した。

天文19年(1550年)7月、肥後菊池義武に対して竹迫・宇土・下陣・片志多攻略に参戦した。弘治年間より兄の後を受けて加判衆を務め、兄の職であった豊前方分、筑前方分を受け継いだ。また、戸次鑑連(立花道雪)や吉弘鑑理と共に大友氏の「三老」にまで列せられた。 弘治3年(1557年)7月の秋月文種の攻略戦、永禄3年(1560年)8月16日以降、筑前の豪族宗像氏貞に対して許斐山城、白山城、蔦ヶ嶽城に数度の侵攻[1][2][3]、永禄10年(1567年)7月の高橋鑑種秋月種実討伐、永禄11年(1568年)4月の立花鑑載らの謀反鎮圧、肥前国龍造寺隆信筑紫広門などの諸国人の討伐や、北九州に侵攻した毛利軍との門司城の戦い、永禄12年(1569年)5月の多々良浜の戦いなど、大友氏における主要な合戦の大半に出陣して武功を挙げた三大将の一人となる。

永禄4年(1561年)8月、大友義鎮は再び門司城の攻略を命じる。こうして吉岡長増・臼杵鑑速の二家老と田原親宏志賀親度朽網鑑康吉弘鎮信・戸次鑑連・田北鑑生ら六国衆は1万5千余の兵を率いて豊後大友館を出陣し、再び門司城を包囲した。10月26日、大友軍の再度の門司城総攻撃。和布刈神社の裏手から門司山麓に迫った大友軍は、臼杵、田原、戸次、斎藤、吉弘という大陣容で攻め、臼杵鑑速や田原親賢らの鉄砲隊数百と戸次鑑連の弓箭隊8百と連携して小早川隆景勢に射ち込み大損害を与えたという[4]。 しかし、城を落とすことは出来ず日没となり、大友軍は大里まで引き上げた。

晩年には嫡男の統景に役目を譲り引退した。

鑑速の存命中は宗麟の義兄・田原親賢も勝手な振る舞いはできなかったが、天正6年(1578年)の耳川の戦いにおける大友軍の大敗後、立花道雪は筑前から手紙を送り「吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と嘆いている。また江戸期の豊後の三賢人三浦梅園は「臼杵鑑速、吉岡宗歓がいればこんな戦いはなかったであろうに」と言っている。『高橋記』にも「才徳勇猛の良将」と賞されている。

なお系図には「あきすみ」と書かれている。また、宗麟が大内氏滅亡の際に毛利元就から譲られ、後に豊臣秀吉に献上された瓢箪茶入(大内瓢箪・大友瓢箪、後の上杉瓢箪)を、一時この鑑速が貰い受け所持していた記録がある。

脚注

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  1. ^ 吉永正春『筑前戦国史』宗像地方の戦い p.169~170
  2. ^ 許斐山城の戦い
  3. ^ 宗像記追考 P.574~579
  4. ^ 『陰徳太平記』・『吉田物語』