清原宣賢
清原宣賢像(個人蔵) | |
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 文明7年(1475年) |
死没 | 天文19年7月12日(1550年8月24日) |
改名 | 宣賢→環翠軒宗武(号) |
別名 | 船橋大外記宣賢 |
墓所 | 禅林寺(福井県福井市徳尾) |
官位 | 正三位、侍従 |
主君 | 後柏原天皇 |
氏族 | 卜部氏嫡流・吉田家→広澄流清原氏 |
父母 | 父:吉田兼倶、養父:清原宗賢 |
兄弟 |
吉田兼致、卜部兼永、宣賢、 中御門宣秀室 |
子 |
業賢、吉田兼右、等貴、周清、 智慶院など |
清原 宣賢(きよはら の のぶかた)は、戦国時代の公卿・学者。従二位・吉田兼倶の三男。明経博士・清原宗賢の養子。官位は正三位・侍従。
経歴
[編集]文明7年(1475年)吉田神社祠官神道家・吉田兼倶の三男として誕生。明経博士だった清原宗賢の養子として入る。
主水正・大炊頭・六位蔵人を経て、明応9年(1500年)従五位下に叙爵。明応10年(1501年)世職である少納言に任ぜられるとともに、直講を兼ねて宮中に仕えて講義を行い、明経道を整理して和漢にわたる著作をおこなう。大永元年(1521年)従三位に叙せられて公卿に列すとともに、20年に亘って務めた少納言から退いた。大永2年(1522年)侍従に任ぜられ、大永6年(1526年)正三位に至る。享禄2年(1529年)に宮仕えから身を引き、大徳寺で出家・剃髪して環翠軒宗武と号し、学者としての活動に専念した。
天文19年(1550年)7月12日に越前国一乗谷にて薨去。享年76。
業績
[編集]国学者・儒学者として多くの著作があるが、そのなかでも各種の抄物(『職原私抄』『日本書紀神代巻抄』『伊勢物語惟清抄』等)は現在も多く伝わり、日本における古典研究の基礎資料となっている[2]。なお、清原家は四代後の秀賢から舟橋家を称したため、宣賢を船橋大外記宣賢と記した史料もある。
宣賢は自らの研鑽や講義手控の作成にあたって、先人の講義聞書や注釈を探求し、それを丁寧に書写したことで、一時代前の人々の口語が資料として残されることになった[2]。その作業で集めた先人の聞書や注釈書を自らの手控に取り入れる際に、宣賢は文語文体で簡略にまとめ直している[3]。そうした数多く残る宣賢の講義聞書は、日本語学史上において、貴重な口語資料群となっているが、いまだ未開拓の分野もある[4]。
官歴
[編集]注記のないものは『公卿補任』による。
- 文明12年(1480年) 3月29日:主水正
- 文明16年(1484年) 9月5日:大炊頭
- 文明18年(1486年) 7月12日:六位蔵人
- 明応9年(1500年) 6月28日:従五位下
- 明応10年(1501年) 2月20日:直講。閏6月26日:少納言、頭正直講如元
- 文亀3年(1503年) 6月1日:従五位上
- 永正元年(1504年) 3月3日:昇殿
- 永正3年(1506年) 5月20日:正五位下
- 永正7年(1510年) 4月:従四位下
- 永正10年(1513年) 正月14日:従四位上
- 永正13年(1516年) 12月19日:正四位下
- 大永元年(1521年) 4月2日:従三位、去少納言
- 大永2年(1522年) 3月29日:侍従
- 大永6年(1526年) 11月14日:正三位
- 享禄2年(1529年) 2月11日:出家
- 天文19年(1550年) 7月12日:薨去
系譜
[編集]尊卑分脈[6]によれば、幕府奉行人清貞春(筑後守)の養子清総昌(清四郎)は宣賢の子。また「吉田船橋家譜」[7]によれば、上記の妙佐はこの清四郎の子とする。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 塙保己一 , ed (1985). 群書系図部集 6. 太田藤四郎. 続群書類従完成会. pp. 415-416, 427
- 洞院公定『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集第19-20巻』 3巻、吉川弘文館〈故実叢書〉、1904年。doi:10.11501/991594 。2023年4月8日閲覧。
- 西田長男「「藤原惺窩伝補遺」続貂」『國學院雜誌』第63巻第2/3号、國學院大學、1962年3月、76-83頁、doi:10.11501/3365315、2023年11月13日閲覧。「公方ニ奉公。於防州討死 此子息妙佐、後ニ幽斎御抱置。」
- 小林千草「清原宣賢」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年4月、24-27頁。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 日本書紀抄 2巻 - 国立国会図書館