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菊池平八郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
菊池重固から転送)

菊池 平八郎(きくち へいはちろう)は、江戸時代、水戸藩において代々襲名された名跡である。歴史学者、水戸学者で彰考館総裁も勤めた、菊池南洲平八郎重固、幕末に徳川昭武の渡欧に随行した菊池平八郎など、菊池平八郎を襲名した直系の人物のほか、その近親者についても記述する。原則として、人物ごとに項目を分け、知名度や文献での頻出度に従い、姓名号諱、または姓名諱の順に示す。

菊池南汀平八郎矩

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1717年(享保2年)[1] - 1779年(安永8年)

号は南汀、幼名は初之助[2]、初名は方、諱は矩[3][2]、字は子正[4][2]。通称平八郎[1]。平八ともされ[4][2]、後述のように、子の平八郎も平八ともされる。

もと鈴木氏、父重吉故あって菊池氏を冒す[3][1]。後述の4代後の子孫、菊池謙二郎は7代前が鈴木とする[5]。母は潮田氏、妻は岡野氏、男子4人[3]

水戸学では朱舜水安積澹泊の流れを汲む朱子学系統に属す[6]。早くから直接安積澹泊に学び、澹泊に初之助と呼び捨てにされる[2]。南洲菊池平八郎重固の師[6]で父[7]。 彰考館に入り、

  • 1741年(寛保元年)、大日本史の編集に関わる[8]
  • 1767年(明和4年)、班新番、明和8年、大番、翌年、近習番となり、江戸邸で働く[3]
  • 1779年(安永8年)7月15日、没、63歳、小石川常樂院に葬られる[3][4]。後世、墓は、水戸市の現常磐共有墓地に移されたとされる。墓碑は友人長久保玄珠[1]

菊池南洲平八郎重固

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1751年(宝暦元年) - 1808年(文化5年)。

号は南洲[4]または、紫泉[1]。名または諱は重固(しげかた・じゅうこ[9])。字は子厚[4]または子原[6]、造酒蔵と称し、通称は平八郎、平八ともされる[10]。初め、造酒蔵と称し、後、平八郎に改名[7][1]。母、岡野氏[1]

人物について「君性忠厚、沈勇、少語言」の評がある[6]。書及び撃剣を善くす[7]

  • 1751年(宝暦元年)、水戸に生まれ[7]、前項、父、南汀のほか、やはり朱子学派で、藤原惺窩林羅山の流れを汲む柴野栗山に師事する[11]
  • 1779年(安永8年)彰考館に入る[6]
  • 1797年(寛政9年)藤田幽谷の書を、政庁に坐した藩主徳川治保が、菊池平八に読ませたとされ[12]高い地位にあり、重ねて、通称が平八でもあった事が示される。
  • 1798年(寛政10年)2月25日、第27代彰考館江館総裁に就任、俸禄150石[10]、江戸詰[13]。所謂御用調役ナル者ハ、文公ノ時始テ置キ、菊池平八郞ヲ以テ之ニ任ズ。然ドモ菊池ハ大抵中奧ニ出入シ、公ノ親書草案ヲ掌リ、嘗テ政府ニ在ラズ。菊池歿スルニ及ビ、其ノ職ヲ廢ス[14]。1766年(明和3年)~1805年(文化2年)が、大日本史の編纂にも力を入れていた治保の藩主時代である[15]
  • 1799年(寛政11年)5月4日、公子泰之允保右朝傳と為り留主居物頭班[16]
  • 1802年(享和2年)立原萬、菊池平八に与フル書[10]
  • 1804年(文化元年)12月22日致仕、同5年7月22日没、年58[17]。小石川常樂院、父南汀の隣に葬られる[4][7]。後世、墓は水戸の現常磐共有墓地の父南汀の墓の隣に移されたとされる[1]。著作に『鎌倉英勝寺住持職事考』[7]

菊池平八郎重旋

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1782年(天明2年)? - 1845年(弘化元年)。名は重旋(しげはる)、造酒蔵とも称す。号は秋齊[18]。重固の子、重元の父。進物番、書院番組[19]。妣(はは)根本氏[1]

  • 1831年(天保2年)『水藩画図』、1841年(天保12年)『水戸城下絵図』[20]、後の水戸市梅香、菊池慎七郎、菊池謙二郎の自宅辺りに「菊池」の記載がある。
  • 1845年(弘化元年甲辰)4月22日病没、64歳、常磐原に葬られる[1]
  • 1845年(弘化2年)「鐵五郎父、菊池造酒蔵」の記録があり[21]、平八郎と共に造酒蔵の襲名も判る。

妻は西川氏、重元、先に没した重實、齋藤氏を継いだ久敬、重勝、早世した六郎、重徳、早世した女子、布施則正に嫁いだ女子を生む[1]

菊池平八郎重元

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1809年(文化6年)?- 1869年(明治2年)。 造酒蔵[22]または造酒造(ママ)[19]、号は道齊[1][18]。代々150石の家督をうける[19]。重旋の長男[1]。小納戸役、小姓頭[1]

  • 1846年(弘化2年)3月、菊地重善(爲三郞大番組造酒藏弟)との記録[23]
  • 1849年(嘉永2年)11月29日、菊池造酒蔵 弟爲三郞御尋御免被遊旨大御番如元との記録[23]から、弟為三郎の存在と本人の地位と復権が確認される。また、
  • 1852年(嘉永5年)11月の件として、菊池造酒蔵を記した資料[24]がある。
  • 1869年(明治2年)4月7日没、61歳[1]

墓は常磐共有墓地[10]、墓誌は津田信存撰[18][1]、矢島義容書で、子の興の建てたもの[1]。 弟を順に示す[19][1]

菊池秀助重實

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1809年(文化6年)? - 1837年(天保8年)。 後の鈴木城之助。秀介の字も[25]。重實(しげざね)[19]、徳馨(とくけい)[19][25]と称す。

神道無念流の達人。『回天詩史』に、水府の諸士を諭したる内に義を見て敢て為すは菊池秀介なり、とあるとされる[26]。二十歳頃、藤田東湖等と徳川斉昭を世継ぎとする為、奔走するが、次男の為、格別の恩賞がなく、不平を示したため、浪人となるが、江戸居住を許される。浪人となった際、祖先の姓を取り、鈴木城の助または城之扶と名乗る。誠之助との記録[19]、鈴木城之助または城之扶が条之助と書く事を記した資料[27]もある。

  • 1831年(天保2年)11月7日、藤田東湖宛の急報を聞き東湖に伝える。この時は菊池秀助とある[25]
  • 1837年(天保8年)6月1日、生田万の乱に加わり、柏崎の桑名藩陣屋での斬り合いで死去[19]。没年は三十歳くらい[19]、三十歳と明記した検死資料[28]もあり、生年は兄と同じ1809年頃である。

菊池爲三郎重善

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1815年(文化12年)? - 1883年(明治16年)。 後に三左衛門[29]。重旋の三男、母は越前守治好家士西川茂長の娘[29]。無念流の達人、水戸藩士として、一家を創設[19]

橋本左内の日記に名がある[30]中根雪江も度々、言及し、水府藩菊池爲三郎の弟で尾藩永井氏養子の永井剛蔵とも記している[31]

  • 1839年(天保10年)夏、三条で兄菊池秀助(鈴木城之助)の追善供養を行う[19][29]
  • 1843年(天保13年)10月、弘道館の第一回大試験で武芸出精に付、白銀五枚を賜る[32]
  • 1845年(弘化2年)紀州徳川家を訪ね、幕府より謹慎処分を受けた徳川斉昭の冤罪を訴えるが、却って反幕府のお尋ね者となり、斉昭は爲三郎に密命を与えるとともに、伊達宗城に爲三郎の保護を依頼する[33]
  • 1847年(弘化4年)7月、多田慎之助の変名で宇和島へ渡る[33]
  • 1848年(嘉永元年)高野長英と親しくする。
  • 1849年(嘉永2年)宗城が重善宛とする書状を送る[34]。復権[23]
  • 1850年(嘉永3年)兄菊池造酒蔵の記録があり、水戸市菊池謙二郎(後述)は甥とされ[34]、親族関係が判る。
  • 1859年(安政6年)10月、幕府により、百日押込となる。この時は御徒目付[35]
  • 1860年(安政7年?)復権、菊池三左衛門(爲三郞改名)が郡奉行見習となる[36]
  • 1863年(文久3年)6月、水戸藩士菊池三左衛門重善、鎮派の一人として、諸生30余人と共に太田資始に面会を求める[37]
  • 1868年(慶應4年)7月10日、政府により、菊池三左衛門が謹慎となる[36]
  • 1883年(明治16年)青柳村にて死去、享年69歳[29]。1889年(明治22年)靖國神社ヘ合祀された菊池三左衛門[38]は別人である。

菊池銀四郎久敬

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? - 1864年(元治元年)。 後の齋藤銀四郎久敬。無念流の達人で文学もあり、齋藤氏を継ぎ、弘道館の師範となる[39]

  • 1843年(天保13年10月)菊池銀四郎として、弘道館の第一回大試験で武芸出精に付、白銀三枚を賜る[32]
  • 1845年(弘化2年)齋藤久敬(銀四郎)または齋藤銀四郞(久敬·水戸藩士)が齊昭雪宛のため、江戸に登る[40][41][42]
  • 1864年(元治元年)8月22日、天狗党の乱における水戸郊外での戦闘で、水戸軍の齋藤銀四郎戦没[43]、斎藤銀四郎久敬安政年間雪免運動に活躍したがのち市川党。元治元年茨城郡細谷村(現水戸市城東)で戦死[44]

菊池鐵五郎重威

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1822年(文政5年)? - 1868年(明治元年)。 または、菊池重勝五郎衛門、平八郎重旋の五子[45]。種田流槍術に熟練、一家を創設[19]、弘道館教師として俸禄を得る。安政の末、歩士目附、小十人組奥右筆馬廻組大番頭[45]

  • 1852年(嘉永5年)1月19日夜、水戸を発つ事になった吉田松陰を訪ねる[46]
  • 1868年(明治元年)10月2日、菊池五郎衛門重勝、不明門を守り弾丸か砲弾にあたり死亡、47歳と記録がある[45][47]ため、生年は1822年頃である。

菊池輿七郎重徳

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1826年? - 1896年(明治29年)[48]。後、菊池慎七郎。初め施政、初名は秀吉、剛蔵重徳。永井剛蔵、菊池剛蔵を経て、慎七郎重徳[36][48]。無念流の達人[19]。七男一女の末子[48]で、(俸禄加増なく)分家するところを水戸候に認められ、一旦、尾張藩士永井家養子となる[49]。中根雪江による剛蔵の記録は前述。次男が謙二郎、謙二郎の次男が揚二。

水戸藩士郡司孝介次女、萬18歳を妻として水戸藩士となり一家を創設、天王町に住む[49]。弘道館の撃剣の教師に「菊池謙二郞、菊池忠三郞君の父君、菊池剛藏君」がおり[50]、禄高は200石[51]ともされる。天狗党に属す。

  • 1866年(慶応2年)11月18日明け方、借住の神崎町神山繁衛門屋敷で、御徒目付1、押1、諸生60人に捕縛される際、羽織袴に着替え、評定所に連行、御用長屋へ禁錮幽閉され、満3年後、自由の身となる[47][49][52]。間もなく、水戸藩支藩石岡藩付家老、維新に伴い、同藩大参事となる。菊池慎七郎穂積重徳[53]、剛蔵の慎七郎への改名を示す資料[54]もある。菊池剛蔵に改名した海後磋磯之介は別人。
  • 1889年(明治22年)4月5日、謙二郎の友人、正岡子規らが、自宅を訪ねる[55]。場所は前述の天保期の菊池家と一致する。「案内を乞えば五十許りの翁出で来る」、丁寧な言葉で家に招き入れ、座敷には「柱には東湖の書を彫りたる竹の柱隠しあり」等と子規が記している。
  • 1896年(明治29年)5月、水戸市大坂町(後の梅香[56])、無念流の剣道の名家とされる[57]。11月死去[48]

菊池平八郎為政

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Japanese Delegation Tokugawa Akitake in Marseille France 1867
ほぼ中央、画面左を向く横顔の人物が菊池平八郎

1839年(天保10年)- 1890年(明治23年)[58]。諱は為政。名または字は[58]。重元の子[1]

幕末、兄徳川慶喜の名代として、ヨーロッパに派遣され、留学した徳川昭武随員の一人、水戸殿家来[59]本圀寺御附菊池平八郎[60]、本圀寺勢菊池為政(平八郎)[61]、「菊池謙二郎の父のおい」[62]、菊池平八郎(為政、慎七郎のおい)[48]、天狗党とされる[62]。謙二郎の父は前述、慎七郎、重旋の子、重元の末弟。 以下、原則として誕生日後の満年齢を示す。

  • 1864年(満25歳、元治元年6月23日)菊池平八郎ほか、公子御滞京中各差留達とされ[63]、菊池平八郎の襲名が判る。
  • 1865年(満26歳、慶應元年7月11日)、菊池平八郎ほか、職務勉励に付、金二分一朱被下、12月28日、小姓頭取菊池平八郎ほかに金二百疋、何れも民部太夫様御附相勤被下[63]。それまで、平八郎は本圀寺御附である[64]
  • 1867年(満28歳、慶應3年1月3日)京都発、神戸より幕府軍艦、長鯨丸に乗船、1月9日、横浜着。2月15日(1月11日)、フランス、メッサリーアンペリアル社の飛脚船で横浜発、香港から大型船、スエズから鉄道、アレキサンドリアから船で、
  • 1867年(慶應3年2月29日)マルセイユ着[65]。4月5日(3月1日)、マルセイユの写真場で集合写真(前掲)を撮る。昭武に向って右隣、小姓頭取菊池平八郎として太刀を捧げ、大小を帯刀、髷、和装姿で写る[66]

後、渋沢栄一は、自分の苦難はお附の7人の士ではなく、綱吉という水戸者にあったと語る[65]。 個人名は記されてないが、5月22日、次の歌を詠んだのは12月帰国の者である[67]。『青天を衝け[68]では、平八郎が断髪時に詠んだ形であるが、歌の前文に「初めて洋服を着し己が身にさへ恥しく思へる」とあり、前掲の写真の通りマルセーユ着の時点で、平八郎は月代を剃っておらず、史実と異なる演出である。

   ますかゞみ心を照らせ姿こそかはれど同じ大和魂
  • 1867年9月17日(慶應3年8月20日)昭武のナポレオン三世謁見の儀では、「控席迄」である[69]

スウェーデン、オランダ、ベルギーを訪れる[58]

  • 1867年12月21日(慶應3年11月26日)小姓4人が病気による帰国願いを提出[66]。実情は、洋装し刀を差さぬのであれば、暇を蒙って帰ると言った為で、帰国は12月25日である[67]。翌日、平八郎は昭武の乗馬散策に付添う[66]

1868年2月15日(慶應4年1月22日)以降、資料[66]によっては、単に「平八郎」とした記述が増加する。 この頃、日本からの送金が滞り、あるいは、途絶え、滞在費の不足が現実となった頃、経費削減のため、他の留学生のほか、一行からも大半が帰国、渋沢も、昭武、平八郎等、計5人で長期留学を行う覚悟を持つ[65]。 渋沢提案による、各自への送金を積立て、滞在費を工面するとの約定を、最後まで守ったのは「菊池平八郎、三輪端蔵、澁澤篤太夫の三人のみ」とされる[70]。 7、8月頃、先に帰国した二人が水戸から迎えに来て、帰国が決まる[65]

  • 1868年12月3日(満29歳、明治元年)横浜着[71]。前述のように、この時点で、叔父5人中3人が戦死、1人は拘束中である。
  • 1869年1月20日(明治元年11月9日)渋沢栄一と面会する[72]
  • 1869年(明治2年)軽鋭隊第二大隊第一二隊長[73]、次いで砲兵分隊長[58]。それぞれ、菊池平八郎として記録があるが、この後の廃藩に伴い菊池平八郎の名跡襲名も終る。前述の通り、この年に没した父重元の墓を建てた時点で、を名乗っており、本来の字または名の興に戻ったとして矛盾はない。
  • 1878年(満39歳、明治11年)維新後からこの頃までは、前述の天保期に菊池家の所在地である水戸市大坂町に住み、菊池興として記録が残る[74]。専ら牧畜の業に従事せんと、同志の徒と謀り、5月、水戸市柵町に桃林舎を起す[58]、または、旧藩主らによる牛乳販売のための桃林舎設立に加わる。本人は「特にオランダで牧畜を学んだ」とも記録している[75]。土地が狭く、畜牛の繁殖飼養に不適のため、オランダの方式に倣い、旧藩主が開設、廃藩後は茨城県庁所轄の旧藩士協同拝借を受ける。
  • 1880年7月1日(明治13年)水戸市丹下に牧場を開き、移住[58]、10月17日、幹事に次ぐ取締に選任される[76]
  • 1890年(満51歳、明治23年)没[58]

1902年(明治35年)慎七郎の長男、直一郎を、桂太郎が茨城県種畜産状技師並びに初代種畜場長任命を奏し[77]、茨城県の酪農、牧畜への貢献の一部は、直一郎に引き継がれる。

出典

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  72. ^ 公益財団法人 渋沢栄一記念財団 デジタル版『渋沢栄一伝記資料』、条件不明のためリンクは行わない。
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