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定恵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原定恵から転送)
定恵上人・『集古十種』より

定恵(じょうえ / じょうけい、旧字体定惠皇極天皇2年(643年)- 天智天皇4年12月23日666年2月2日))は、飛鳥時代の学僧。定慧貞恵とも書かれる。父は中臣鎌足(藤原鎌足)。出家前の俗名は「中臣 真人(なかとみ の まひと)」、弟に藤原不比等がいる。

略歴

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653年白雉4年)5月、遣唐使とともに留学僧としてへ渡った[1]長安懐徳坊にある慧日道場に住し[2]玄奘の弟子の神泰法師[3]に師事した。遊学して内経外典に通じたという。

665年天智天皇4年)9月、朝鮮半島百済を経て日本に帰国した。唐からの使節劉徳高の250余人の大使節団と共に帰国したとされる[4]が、同年12月に大原(現在の奈良県高市郡明日香村小原)で亡くなった[注釈 1]。高句麗の僧・道賢(しのびごと)をつくっている。

出家について

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一部の学者は、神祇に関わり、仏教伝来に際しては中臣鎌子中臣勝海らの強硬な反対者を出している中臣氏出身の鎌足が、長男である人物[注釈 2]を出家させるというのは、熱心な仏教信者として知られる蘇我氏においてもなかった前代未聞の事態であったとしている[要出典]

しかし、蘇我馬子の子・蘇我善徳は長子にして出家しており、中臣氏においても中臣渠毎の子である僧侶・安達(中臣大嶋の兄)が定恵と一緒に唐に留学しており、一族の長子が出家することも、中臣氏の子弟が出家・入唐することも特殊ではなかった[5]。また学問を修めた僧が政治に参加することは不思議ではなく、上記の安達と共に粟田氏の道観(後の粟田真人)も同時に入唐している。道観は帰朝後に還俗し、政治参加し大宝律令の制定などの功績を挙げている。

また、定恵の出生に関わる伝説を出家の理由とする学者もいる。角田文衛は『多武峯略記』の伝説を参考に、孝徳天皇が寵妃「車持夫人」を鎌足に下賜した際に既に定恵を懐妊していたとする[6]

脚注

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注釈

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  1. ^ 元亨釈書』では没年を和銅7年(714年)とする。
  2. ^ 当時、後に鎌足の後継者になった不比等はまだ誕生しておらず、定恵は鎌足の一人息子であった。

出典

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  1. ^ 日本書紀』巻二五白雉四年五月壬戌十二日条「四年夏五月辛亥朔壬戌。発遣大唐大使小山上吉士長丹。副使小乙上吉士駒。駒。更名糸。学問僧道厳。道通。道光。恵施。覚勝。弁正。恵照。僧忍。知聡。道昭。定恵。定恵。内大臣之長子也。安達。安達。中臣渠毎連之子。道観。道観。春日粟田臣百済之子。学生巨勢臣薬。薬豊足臣之子。氷連老人。老人。真玉之子。或本、以学問僧知。弁・義徳、学生坂合部連磐積而増焉、幷一百廿一人、俱乗一船。以室原首御田為送使。」。
  2. ^ 『藤氏家伝』貞慧伝「故以白鳳五年(四年の誤り)歳次甲寅、随聘唐使到于長安、住懐徳坊慧日道場」。
  3. ^ 『釈氏稽古略』「玄奘三蔵法師伝」
  4. ^ 『日本書紀』巻二五白雉五年二月条「定恵以乙丑年付劉徳高等船帰」。
  5. ^ 遠藤慶太「入唐僧貞恵と藤原鎌足」(初出:篠川賢・増尾伸一郎 編『藤氏家伝を読む』(吉川弘文館、2010年)/所収:遠藤『日本書紀の形成と諸資料』(塙書房、2015年)
  6. ^ 角田文衞「不比等の娘たち」所収:『平安人物志 上』法蔵館文庫、2020年

伝記史料

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関連項目

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