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藤原親能 (権中納言)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 親能
時代 平安時代後期 - 鎌倉時代前期
生誕 嘉応元年(1169年[1]
死没 承元元年11月22日1207年12月7日
官位 従二位権中納言
主君 高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇
氏族 藤原北家道綱流
父母 父:藤原定能、母:源通家の娘
兄弟 親能、定玄、定季藤原資家 (従三位)、定乗、粟田口忠良室、坊門信清室、源定忠室、源兼忠室、大宮局、定観、斎院女房宣旨、殷富門院六条局、持明院家行室、順徳院女房大納言局
家女房
能快、行能、円親、坊門忠信室、衣笠家良室、藤原家清室、宜秋門院大宮局、大宮殿
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藤原 親能(ふじわら の ちかよし)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿藤原北家道綱流、権大納言藤原定能の長男。官位従二位権中納言

経歴

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承安2年(1172年従五位下叙爵治承2年(1178年)従五位上に陞叙され、翌治承3年(1179年右兵衛権佐を務める。

寿永2年(1183年正五位下右近衛権少将に叙任。寿永3年(1184年美作介、左近衛少将を務め、元暦2年(1185年従四位下文治3年(1187年)従四位上と順調し昇進する。文治5年(1189年)にはさらに正四位下・左近衛権中将に叙任され、美作権介を兼ねる。但馬介を経て、建久8年(1197年従三位侍従に任ぜられて公卿に列した。正治3年(1201年周防権守を兼任。

建仁3年(1203年正三位参議に叙任される。加賀権守を経て、元久3年(1206年)従二位に昇り、建永2年(1207年)権中納言に至る。同年10月に父に先立って薨去した。享年39。

官歴

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  • 承安2年(1172年)正月5日:従五位下(氏)[2]
  • 治承2年(1178年)正月5日:従五位上(皇嘉門院平治元御給)
  • 治承3年(1179年)10月9日:右兵衛権佐
  • 寿永2年(1183年)正月5日:正五位下(府労) 正月27日:右近衛権少将
  • 寿永3年(1184年)3月27日:美作介 10月6日:左近衛少将
  • 元暦2年(1185年)正月6日:従四位下(府労)
  • 文治3年(1187年)正月7日:従四位上(院当年御給)
  • 文治5年(1189年)正月5日:正四位下(院当年御給) 正月28日:左近衛権中将、美作権介
  • 建久4年(1193年)正月28日:但馬介
  • 建久8年(1197年)2月5日:侍従、従三位
  • 正治3年(1201年)正月6日:周防権守
  • 建仁3年(1203年)正月5日:正三位 4月25日:参議
  • 元久2年(1205年)正月29日:加賀権守
  • 元久3年(1206年)4月3日:従二位
  • 建永2年(1207年)2月10日:権中納言

系譜

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脚注

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  1. ^ 明月記承元元年11月22日条。年39とある。
  2. ^ 以下、『公卿補任』による。