蠣崎吉広
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(蛎崎吉広から転送)
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 正保2年(1645年) |
主君 | 松前慶広→公広→氏広 |
藩 | 蝦夷松前藩 |
氏族 | 蠣崎氏 |
父母 |
父:蠣崎季広 養父:松前慶広 |
兄弟 |
南条広継正室、舜広、明石元広、 松前慶広、吉広、守広、下国師季正室、 小平季遠室、安東茂季室、ほか |
子 |
重広、次広、清広、在広、女(松前利広室)、 女(下国広季室)、女(明石包好室) |
蠣崎 吉広(かきざき よしひろ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。吉広系蠣崎家初代。
生涯
[編集]蠣崎季広の九男で、松前慶広の弟[1]。吉広は兄・慶広の仮養子となり、文禄元年(1592年)に豊臣秀吉に、慶長5年(1600年)に徳川家康に拝謁している[2]。この家康に拝謁した年から慶広の居城・松前城(福山館)の築城、城下町の建設に協力した[2]。慶長19年(1614年)、流罪に処されていた花山院忠長が赦免された際、吉広が忠長を京都まで送り届けた[2]。
後に慶広との仮養子関係は解消されたが、慶広から公広、氏広と3代の藩主を補佐して松前藩の藩政も担当し、歴代藩主から厚い信任を受けた[2]。
吉広の子孫はその後、松前藩の重臣として藩政に関与した[2]。なお、江戸時代中期の風俗画家として有名な蠣崎広年(蠣崎波響)は、家系上は吉広の子孫である(実際は8代藩主・松前資広の五男のため、血縁関係は無い)[2]。
系譜
[編集]- 父:蠣崎季広(1507-1595)
- 母:不詳
- 養父:松前慶広(1548-1616)
- 兄弟姉妹
- 長女:南条広継正室
- 長男:蠣崎舜広(1539-1561)
- 次男:明石元広(?-1562) - 明石季衡の養子
- 三男:松前慶広
- 四男:蠣崎随良 - 法源寺住持
- 五男:蠣崎正広 - 正広系蠣崎家初代
- 六男:蠣崎長広 - 定広、長広系蠣崎家初代
- 七男:蠣崎定広 - 信広、但馬守
- 八男:蠣崎包広 - 与三郎、典三郎、早世
- 九男:蠣崎吉広(?-1645) - 吉広系蠣崎家初代
- 十男:蠣崎仲広 - 助五郎
- 十一男:蠣崎守広(1564-1635) - 忠広、広勝、守広系蠣崎家初代
- 十二男:蠣崎員広 - 景広、主水助、員広系蠣崎家初代
- 十三男:蠣崎貞広 - 右衛門大夫、兄:正広の養子
- 女子:下国師季正室
- 女子:喜庭季信室
- 四女:小平季遠室
- 女子:厚谷季貞室
- 女子:安東茂季正室
- 女子:村上忠儀室
- 女子:神浦季綱室
- 女子:下国重季室
- 女子:下国直季室
- 女子:佐藤季連室
- 女子:村上直儀室
- 十三女:新井田広貞室
- 室:不詳
- 生母不明の子女
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 書籍
- 史料