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行商

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
行商人から転送)
リアカーで牛乳を売り歩く行商人
ベルギー・1890-1900年頃

行商(ぎょうしょう、peddler)は、特定の店舗を持たず商品顧客がいるところへ運び販売をする小売業サービス業)のこと。

概説

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行商は、客の注文を受けて運搬して行く配達とは異なり、顧客のいそうな地域を商品を運搬しながら販売する方法で、広義には定期的に開催される市場を巡って物品を販売する業態や、所定の地域を巡回しながら呼び止められたらその場でサービス[1]を提供する羅宇屋、包丁・はさみ研、靴磨きのような業態も含まれる。小売業に対して使用される言葉であり、卸売は行商とは言わない。商品の質[2]によっても行商範囲は異なり、取れたその日に消費される必要のある生鮮食品都市周辺部や都市内部で採れたり作られた食品を運んで売り歩くが、より長期間の保存ができる物品などでは都市から都市へと渡り歩くような業態も存在する。

運搬は、現代では背中に背負って電車などの公共交通機関を利用したり、自転車オートバイやリヤカー、あるいは軽トラックなどの自動車を使うことが多い。また、中世[3]から昭和の中頃までの日本でも、天秤棒を担ぎ、その両端に売りものをぶら下げて運搬することがあった。販売の場所は路上空地公園の一角を間借りするか、あるいは戸別訪問をする。

商売は元来、販売される商品がたくさんある場所や人から多くない場所や人へ融通するものであり、行商はそれを仲立ちする商売の起源ともいえる販売方法である。

現代でもごく一般的に東南アジアの国々では多く見かける、肩にかけた棒に商品を下げて売り歩く行商人(ベトナムホーチミン

なお、元来固定施設(店舗)で営業することがほとんどであった業種でも自動車に営業設備を設けて営業する形態が近年増えてきている。これらの設備を移動店舗、この販売形態は移動販売または無店舗販売と称し、一般的に行商という用語は使われない。加えて移動式の施設を用いて飲食物を提供する形態を屋台と称するが、移動する範囲も狭く広義の行商ではあるが行商と呼ぶことはない。

世界的に見てもこういった業態は多々存在し、都市部の市場で仕入れた物品を村落などを巡回する形で売り歩いた商人などの例は古今東西で枚挙に暇が無い。

この中にはシルクロードを行き交った商人たちのように、命懸けで山越え・砂漠越えをして点在する集落に物品を持ち込んだ者もいれば、そうやって多くの商人の手を経てもたらされた異国の物品をまことしやかな説明を付けて売る者も一部には存在した。中世ヨーロッパにおけるオカルティズムの中には、そういった商人の作り上げた説明が、真に受けられたと考えられる物品も数多く伝わっており、例えば「ウニコール」[4]ユニコーンの伝説と関連付けられ、解毒薬として流通していた。

いわゆる貿易も、当初の頃はこういった行商で都市間を巡回していた商人や隊商が担っており、これが交通・輸送技術の発達にも従い、より組織化され相互連結されて海外貿易などの極大な交易網に発展していったと考えられる。

日本

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中世

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糖粽売地黄煎売鳥売材木売竹売のような「物売」(ものうり)、あるいは女性の行商人である菜売桂女大原女白川女らの「販女」(ひさぎめ)がいた[5][6]

戦国時代から江戸時代にかけて長距離の行商人が富山・京都・大坂・滋賀などから中国・中部・北陸にも及んだ通商路が確立されていった。一般人の移動には制限があったので各国の通行には許可が必要だった。しかし行商人が運んでくる荷物は各国で生産されていない生活必需品・軍事転用可能品が主なので比較的行商人は移動が可能だった。 行商人が運んだ荷物には薬や織物・紐などがあり薬などは修験者が山などで独自に調合した薬であった。綿織物や綿紐などが生産されていたのは後に忍びと言われる人々が住む地域で行商しつつ各国の情勢をスパイしたり資金を得たりしていた。こういった中から真田十勇士などの物語も生まれた。忍びも元々は密教の修験道者から派生した人々も多く物を生産売り歩くだけでなく鉱脈温泉などの自然資産発見も担っていたことから外国から来た技術者だった可能性がある。

近世

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『日本橋』歌川広重の版画(左下に魚売りなどが見える)

江戸時代には都市の発達に伴い都市の消費需要を満たすため商職人が発達し、行商も出現した。行商は天秤棒を担いだ業態では棒手売・背負商人などの呼称で呼ばれ、扱われる商品は魚介類[7]から豆腐といった食品のほか医薬品など生活物資、朝顔金魚風鈴といった生活に潤いを与える物品もあれば、大きな箪笥などの家具を扱う業態も存在し、果てはを行商する者もいた。その様子は浮世絵などに描かれて、江戸時代の風物詩を今に伝えている。

その後、傘や鍋の修理、靴の補修も行商でサービスが提供されるようになった。この頃は生鮮食品の保存手段が限られ、仕入れたらすぐ売り切る必要があった。このため家庭の近くに売り歩いたり、行商や朝市などで販売する形態が多かった。

その他、寿司蕎麦などの料理も移動式の店舗で販売された(屋台を参照)。またこの頃には、越中国(後の富山県)で盛んであった薬業が行商により販売する配置薬の販売方法が始まっている。

また、在方でも商品作物の普及とともに農間余業としての行商が行われた。

なおこういった業態は後に輸送技術や保存技術の発達、また都市部の消費拡大にも伴い次第に定位置に店を構える業態になっていったものもある一方、明治時代初期に生まれた牛乳の行商(量り売り)のような、新規産業に伴う新しい種類の行商も、しばしば時代と共に発生した模様である(→牛乳瓶)。

現代

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21世紀に入った現代でも、海産物に関しては海から遠い山間部や、また流通の主流が集中する都会から遠い離島や僻地などの地域を中心に食品や生活雑貨一切の行商の仕事が残っている。日本における現代の職業としての行商は都道府県の条例によって、その営業の届出が必要とされ、行商の営業品目などの規制がなされている。

自治体によって関係条例の名前は、「食品行商衛生条例」や「食品行商条例」または「魚介類行商取締条例」など、そのニュアンスには若干のちがいがあるが、概ね行商として定められている営業品目には、魚介類とその加工品、類とその加工品、菓子パンアイスクリーム豆腐類・弁当ラーメンたこ焼き石焼き芋わらびもちなどがある。ただし、東京都では特異的に肉類の行商を認めていないが、かわりにゆでめん類の行商があるなど都道府県や政令指定都市ごとにかなり変化がある。また、野菜・果物類や焼き芋・焼き銀杏など農産物およびその単純加工品は、通常どの都道府県でも、行政への届出は不要である。また、古物商の行商には、警察の許可が必要である。また都市部・地方問わず、一部の鉄道路線で号車を区切った行商専用車が導入されていたが、地方私鉄の廃止や合理化で大幅に縮小し、2013年3月に京成電鉄の列車が、2020年3月に近畿日本鉄道で運行されていた「鮮魚列車」が廃止(専用の列車はなくなったが行商専用車を一般列車に連結[8])となっている。

脚注

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  1. ^ 専用の道具と技能を必要とする作業。
  2. ^ 消費期限 / 賞味期限の長短
  3. ^ 一遍聖絵の「備前国福岡の市」には既に描かれている。
  4. ^ イッカククジラの牙
  5. ^ 小山田ほか、p.142.
  6. ^ デジタル大辞泉『鬻女』 - コトバンク、2012年9月19日閲覧。
  7. ^ シジミアサリのような貝も含まれる。
  8. ^ 伊勢志摩の魚介類がテーマのラッピング車両「伊勢志摩お魚図鑑」を導入(3月3日更新)』(PDF)(プレスリリース)近畿日本鉄道株式会社、2020年2月18日https://www.kintetsu-g-hd.co.jp/common-hd/data/pdf/20200303140020200302190915831437881.pdf2020年3月14日閲覧 

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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