許崇灝
許崇灝 | |
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『最新支那要人伝』(1941年) | |
プロフィール | |
出生: | 1881年(清光緒7年)[1] |
死去: |
1957年 中国 |
出身地: | 清広東省広州府番禺県 |
職業: | 政治家・軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 許崇灝 |
簡体字: | 许崇灏 |
拼音: | Xŭ Chónghào |
ラテン字: | Hsü Ch'ung-hao |
和名表記: | きょ すうこう |
発音転記: | シュー・チョンハオ |
許 崇灝(きょ すうこう)は、中華民国の軍人・政治家。革命派軍人として孫文(孫中山)を支持して戦い、国民政府成立前後からは政治家に転じた。字は公武。中山大学校長などをつとめた教育者許崇清の兄で、中国国民党の元老許崇智の従兄[2]である。
事跡
[編集]革命派の軍人
[編集]江南(南京)陸師学堂を卒業[3]。1911年(宣統3年)10月に辛亥革命が勃発すると、鎮江での革命派蜂起に参加し、鎮軍都督府参謀長兼第1支隊長となった。続いて南京攻略に加わり、攻略後には南京臨時警備司令に任ぜられた。まもなく北伐軍兵站総監も兼ねている。南京に中華民国臨時政府が成立すると、南京衛戍総都督府監察処処長に任ぜられた。北京遷都後は、南京留守警備局局長となった[4][5]。
1913年(民国2年)の第二革命(二次革命)では、革命派の江蘇討袁軍総司令部主任参謀をつとめたが、敗北している。1915年(民国4年)末からの護国戦争では、両広護国軍司令部高級参謀兼護国軍第1独立旅司令部参謀長兼第17団団長をつとめた。1917年(民国6年)、陝西省に赴き全省警備総司令部総参議となる。まもなく南方に引き返し、1918年(民国7年)、粤桂滇北伐聯軍兵站総監兼粤漢鉄路監督となる。以後、総理粤漢鉄路事宜、粤漢鉄路を歴任して、数年にわたり同鉄路の防衛・管理を担当した[4][5]。
政治家への転向、晩年
[編集]1922年(民国11年)6月、陳炯明がクーデターを起こすと、これに反撃を図る孫文(孫中山)により、許崇灝は東路討賊軍警備司令に任ぜられた。1923年(民国12年)、許崇灝は黄埔軍官学校創設を孫文に提言している。1924年(民国13年)1月、広東省財政委員会委員に任ぜられ、まもなく広東全省沙田清理処処長に移った。1925年(民国14年)6月、再び粤漢鉄路の管理を担当し、後に粤軍総司令部顧問となっている[6][5]。
国民政府の北伐が完了する直前頃に、許崇灝は軍人の職務を離れ、以後、政治家として活動することになる。1928年(民国17年)、広東省党務指導委員会秘書に任ぜられ、同年11月、考試院秘書に転じた。その翌月に両粤賑災委員会委員に任ぜられている。1929年(民国18年)12月に考試院秘書長代理となり、1932年(民国21年)12月から1942年(民国31年)12月まで同院秘書長をつとめた。その後は、国民政府顧問や考試院院部顧問官などを歴任している。中華人民共和国成立後も許崇灝は大陸に留まり、1956年1月には上海文史館館員となった。1957年、死去。享年77[7][5]。
著作
[編集]- 『青年訓練教範』
- 『戦術応用作業之参考』
- 『中国政利概要』
- 『伊斯蘭教志略』
- 『新疆志略』
- 『新疆簡史』
脚注
[編集]- ^ 徐主編(2007)、1685頁による。一方、劉国銘主編(2005)、582頁は1883年(光緒9年)、東亜問題調査会編(1941)、42頁は1885年生まれとしている。
- ^ 東亜問題調査会編(1941)、42頁は、許崇智を1883年生まれ(通説は1887年生まれ)と記述していることから許崇灝をその「従弟」とみなしているが、これは誤りと思われる。
- ^ 東亜問題調査会編(1941)、42頁は、その後に日本へ留学して陸軍歩兵学校で学んだ、としている。しかし陸軍歩兵学校の創設は1912年(大正元年)であり、明らかに記述が誤っている。
- ^ a b 徐主編(2007)、1685頁
- ^ a b c d 劉国銘主編(2005)、582頁
- ^ 徐主編(2007)、1685-1686頁
- ^ 徐主編(2007)、1686頁
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。