議奏
議奏(ぎそう)とは、
鎌倉時代
[編集]文治元年(1185年)10月18日、後白河法皇は源義経の要請により源頼朝追討宣旨を下すが、翌月の義経没落で苦しい状況に追い込まれた。後白河院は頼朝に「天魔の所為」と弁明するが(『吾妻鏡』11月15日条、『玉葉』11月26日条)、頼朝は院の独裁を掣肘するために廟堂改革要求を突きつける。内容は「行家義経に同意して天下を乱さんとする凶臣」である平親宗・高階泰経ら12名の解官、議奏公卿10名による朝政の運営(九条兼実・徳大寺実定・三条実房・中御門宗家・中山忠親・藤原実家・土御門通親・吉田経房・藤原雅長・日野兼光)、兼実への内覧宣下だった(『吾妻鏡』12月6日条、『玉葉』12月27日条)。また、義経の任国だった伊予を兼実の知行国にしたのをはじめ、実定・宗家・実家・通親・雅長にも新たに知行国が給付された。頼朝の議奏に対する期待は大きく、翌文治2年(1186年)4月30日付の議奏公卿に宛てた書状には「天下の政道は群卿の議奏によって澄清せらるべきの由、殊に計ひ言上せしむるところなり」「たとひ勅宣・院宣を下さるる事候といへども、朝のため世のため、違乱の端に及ぶべきの事は、再三覆奏せしめたまふべく候なり」と記されている(『吾妻鏡』同日条)。しかし議奏に指名された公卿は頼朝との面識はなく[1]、頼朝追討宣旨に賛同した実定が含まれるなど、必ずしも親鎌倉派という陣容ではなかった[2]。頼朝から内覧推薦の書状を受け取った兼実は「夢のごとし幻のごとし」と驚愕し(『玉葉』12月27日条)、関東と密通しているという嫌疑をかけられるのではないかと怯えている(『玉葉』12月28日条)。他の公卿についても一方的かつ突然の就任要請だったと見られ、後白河院と頼朝の対立の矢面に立たされることに困惑する者も多かったと推測される。その後、面々のほとんどが院庁別当として後白河院に取り込まれてしまい、議奏はその機能を停止した。ただし、その後も朝廷内にて必要に応じて設置された形跡があり、西園寺公衡の日記である『公衡公記』の正応元年(1288年)正月の記事に「議奏公卿」の名前が登場している[3]。
江戸時代
[編集]江戸時代には、天皇に近侍し、勅命を公卿以下に伝え、議事を奏上した。定員は4名で毎日交代で1名が宮中・林和靖間に昼夜待機して天皇に仕え、必要に応じて他の3名も出仕した。
寛文3年1月5日(1663年)、幼少である霊元天皇の補佐を目的として葉室頼業・園基福・正親町実豊・東園基賢の4名が任命されたのを嚆矢とする。制度の設置の背景には当時院政を行っていた後水尾法皇の意向があったと考えられている。当初は年寄衆・御側衆などとも呼ばれていたが、貞享3年12月7日(1686年)に霊元天皇は源頼朝の故事から「議奏」の名称を選定し、以後この名称で固定された。
元々、摂家を除く堂上公家は室町時代以来、毎日交替(番)で禁裏御所に伺候・宿直する禁裏小番の役目を与えられており、天皇との親疎によって内々(うちうち)と外様に分けられ、この他にも院や東宮に伺候する者もおり、「院参衆」や「東宮近習」などと呼ばれてきた。年寄衆(御側衆)が設置されたのは禁裏小番の中より新天皇の側に仕える近習「奥之番」21名を選定したのと同時であり、葉室ら4名は奥之番を兼務し、その責任者の立場でもあった[4]。当初は年寄衆(御側衆)や奥之番は本来の内々・外様の小番と掛け持ちであったが、寛文10年(1670年)10月10日に年寄衆(御側衆)の禁裏小番が免除され[5]、翌寛文11年(1671年)には、奥之番も本番所(内々・外様のそれぞれに設けられた詰所)への出仕が免除された。奥之番になった者は依然として内々・外様の名簿には名前が残されていたものの実質的には第三の小番と言える近習小番が成立することになる。しかし、この年に霊元天皇と一部の近習小番が花見を開いて泥酔する騒動を起こし、後水尾法皇は改めて年寄衆(御側衆)に対して武家伝奏と連携して近習小番の監督を行うように命じている[6]。
羽林家・名家出身の35歳以上の近習経験者が任命され、当番日以外の日にもいつでも参内を必要とする可能性があることから、実質全日勤務とみなされたために禁裏小番など公家に対する義務のいくつかは免除された[7]。天皇の側近として朝儀・公事・人事・法制など幅広い分野における諮問を行い、天皇出御の際には常に従った。また、奏上・宣下に関する手続にあたり、朝廷の諸奉行・禁裏小番に直接命令を伝えるなど、朝廷の運営の中枢に立ち、摂家・武家伝奏に次ぐ要職であった。摂関や幕府ですら掌握できない天皇の日常の動静を知る立場となるために、議奏は就任に際しては血判誓書を武家伝奏に提出するなどの厳重な手続を要した。このため、役料として朝廷から20石(50俵相当)が与えられ[8]、延宝7年(1679年)江戸幕府からも別途40石(100俵相当)が与えられた[9]。
議奏の仕事として、天皇に対する奏上と天皇からの宣下に関する事務やそれに関係して関白以下の廷臣が天皇と会見をする際の日程の調整などを行っていた。勿論、廷臣たちは後宮の長橋局を経由するなどの方法で天皇と会見するなど他の手段もあったが、公式な会見を設定できるのは議奏のみであり、議奏を通さない会見に基づく上奏や宣下は法的には無効とされていた[10]。
明治維新によって廃止。なお、議奏によって作成された公的な日記である議奏日次案が今日も一部が現存している。
脚注
[編集]- ^ ただし吉田経房は頼朝の幼少期に、上西門院の側近として共に仕えているので面識はあったと思われる。
- ^ 頼朝追討宣旨発給の経緯について頼朝は、妹婿の一条能保から「都人の伝言」として報告を受けているが、その情報は後白河院の諮問に対する経宗、兼実、実定、経房の奏上内容や院近臣の動向に触れるなど極めて詳細なものだった(『吾妻鏡』11月10日条)。能保が鎌倉にいながら朝廷中枢に関わる情報を得られた理由について、佐伯智広は能保の母が徳大寺公能の娘であることから、実定が表向きは追討宣旨発給に賛同しながら、密かに甥の能保と通じていたのではないかと推測している。議奏指名後に実定が越前国、弟の実家が美作国を知行国として獲得しているのは、情報提供に対する報奨とも考えられる(佐伯智広「一条能保と鎌倉初期公武関係」『古代文化』564、2006年)。
- ^ 『国史大辞典』・『日本歴史大事典』の「議奏」の項目(『国史』田中稔、『日本歴史』河内祥輔、執筆)参照のこと。
- ^ 林大樹「序章 近世天皇・朝廷研究の成果と本書の目的」『天皇近臣と近世の朝廷』(吉川弘文館、2021年) 2021年、P8-9.
- ^ 田中、2011年、P89
- ^ 林大樹「近世の近習小番について」『論集きんせい』第40号(2018年)/所収:林『天皇近臣と近世の朝廷』(吉川弘文館、2021年) 2021年、P140-146.
- ^ 禁裏小番の免除は寛文10年10月10日より行われている(田中、2011年、P89)。
- ^ 当時、御側衆の1人であった柳原資行が困窮を理由に辞退を申し出たのをきっかけに、後水尾法皇の命令で寛文11年10月15日より禁裏御料から支給されることになった(田中、2011年、P95-96)。
- ^ 延宝2年(1674年)に東福門院の御所造営の完了を名目に将軍徳川家綱から京都所司代を通じて御側衆にそれぞれ銀50枚が授けられており、幕府が御側衆を取り込んで朝廷統制に活用しようとしていたことがうかがえる。延宝7年5月6日から実施された幕府からの役料支給もその延長上に考えることができる(田中、2011年、P98-99)。
- ^ 石田俊「元禄期の朝幕関係と綱吉政権」(初出:『日本歴史』725号(2008年)/所収:石田『近世公武の奥向構造』吉川弘文館、2021年 ISBN 978-4-642-04344-1)2021年、P63-66.
参考文献
[編集]- 「日本史総覧(補巻Ⅱ・通史)」新人物往来社、1986年。同書には、江戸時代に補せられた議奏該当者の一覧が編年順にて掲載されている。
- 松島周一 「初期鎌倉幕府の対京都姿勢--文治元年末の廟堂改造要求を通して」『歴史学研究』584、1988年。
- 本田慧子 「議奏(二)」『日本歴史大事典』第1巻845ページ、小学館、2000年。
- 田中暁龍「議奏(近世)」『日本史大事典』第2巻674ページ、平凡社、1993年。
- 田中暁龍「江戸時代議奏制の成立について」(初出:『史海』34号(1987年6月)/改題所収:「議奏制の成立と寛文・延宝の朝幕関係」(田中『近世前期朝幕関係の研究』(吉川弘文館、2011年) ISBN 978-4-642-03448-7)