趙孟頫
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趙 孟頫(ちょう もうふ、Zhào Mèngfǔ、宝祐2年9月10日(1254年10月22日)- 至治2年6月16日(1322年7月30日))は、南宋から元にかけての政治家・文人(書家、画家)。字は子昂、号は松雪。諡は文敏[1]。湖州烏程県の人。出自は宋の宗室で、南宋の第2代皇帝孝宗の同母兄の趙伯圭の玄孫である。字から趙子昂、号から趙松雪と呼ばれることも多い。
妻の管道昇も画家として有名である。曾祖父は趙師垂。祖父は趙希戭。父は趙与訔。兄は趙孟頔・趙孟頒・趙孟碩・趙孟頌・趙孟頖・趙孟顥。弟は趙孟龥・趙孟頵・趙孟願。王蒙は外孫にあたる。
経歴
[編集]南宋の真州(現在の江蘇省揚州市儀徴市)の司戸参軍に任官するも、宋室の滅亡によって、官途を離れる。
至元23年(1286年)、元の世祖皇帝クビライに招かれて大都に行き、兵部郎中となったが、宋を滅ぼした元朝に仕えたことは一族からも批判され、一族の縁を切った者さえいたという。元に仕えたことにより、後世の評判も芳しくない。以後、歴代の元の皇帝のもと、集賢院や翰林院の学士となった。
69歳で没後、魏国公に追封され、文敏の諡号を与えられた。名声の故か、『三十六幅春画冊』(架空の作品)が清代の好色小説『肉蒲団』に登場する。
業績
[編集]- 王羲之の書風を学び、宋代の奔放な書風と一線を画し、後代に典型を提供した。書は王羲之を越え、中国史上でも第一人者ともされている。
- 上記のように、宋の宗室の出身でありながら、自分の王室を滅ぼした敵方に仕えたことや、漢人でありながらモンゴル帝国に臣従したことにより、中華思想的な見地から評価を下げられている[2]。
- 画風においては、文人画を復興した。
- 文集は『松雪斎集』。
作品
[編集]- 「蘭亭十三跋」(東京国立博物館)
- 「楷書玄妙観重脩三門記巻」(東京国立博物館)
- 「漢汲黯伝」(永青文庫)
- 「道徳経」元代延祐3年(1316年)3月24日 - 25日
- 「楷書張総管墓誌銘巻」(故宮博物館)
伝記
[編集]脚注
[編集]- ^ 近藤春雄『中国学芸大事典』大修館書店、1978年、552頁。ISBN 4469032018。
- ^ 杉山正明『世界の歴史 大モンゴル帝国の時代』中央公論新社