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斯波宗氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
足利宗氏から転送)
 
斯波宗氏
時代 鎌倉時代中期 - 鎌倉時代後期
生誕 不明
死没 正和元年(1312年)12月?[1]
改名 又三郎、尾張守(通称)、足利家貞(初名?)[注釈 1]
足利宗氏
別名 斯波宗氏、斯波家貞
幕府 鎌倉幕府
氏族 足利氏斯波氏
父母 父:足利宗家、母:苅田時継の娘
正室:長井時秀の娘[3]
高経家兼ほか
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斯波 宗氏(しば むねうじ)は、鎌倉時代中期ごろから後期にかけての武将斯波氏(足利尾張家)第3代当主。

概要

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斯波宗家(足利宗家)の嫡男で、母は北条時継の女。又三郎、尾張守と称す。初めは家貞(いえさだ)を名乗っていたとされる[注釈 1]。妻は大江時秀(長井時秀)の娘[3]南北朝時代の有力武将である斯波高経斯波家兼兄弟の父。

宗氏の生涯は不明な点が多いが、延慶2年(1309年)3月29日には幕府尋問に応じて証文を提出[4]しているため、この頃までには足利尾張家の当主となっていたと思われる。同時代には歌人として名を知られていたらしく、「続後拾遺和歌集」や「新千載和歌集」等の勅撰和歌集にその歌が撰録されている。「尊卑分脉」などの諸系図では「早世」とあり、また平成30年(2018年)に高野山金剛三昧院にて発見された宗氏の五輪塔の銘文には「正和元年十二月」と刻まれていることから、これを宗氏の没年とする説もある。少なくとも嫡子・高経が元亨3年(1323年)12月の北条貞時十三回忌供養において、足利貞氏吉良貞義らと共にこれに参加していることから、この頃までに死去した可能性がある。

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 得宗専制が確立する北条貞時高時の代には北条氏得宗家の当主から一般の御家人へ偏諱(「貞」または「高」の字)を授与する図式が成立していたことが近年の研究によって指摘されており[2]、「家貞」の名は、系図上で時宗(貞時の父)から1字を受けたとみられる宗家と、高時から1字を受けたとみられる高経の間に位置する宗氏が貞時と烏帽子親子関係を結んでその偏諱(「貞」の字)を賜って名乗ったものとみられる。また、『鎌倉・室町人名事典』には高経の父が足利家貞と明記されている[3]。但し、宗氏と家貞は別人であるとの説もある。

出典

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  1. ^ 『高野山大学密教文化研究所紀要』第33号「源氏一門墓所としての高野山金剛三昧院-新発見の足利宗氏五輪塔を中心として-」木下浩良2020年
  2. ^ 角田朋彦「偏諱の話」『段かづら』三・四、再興中世前期勉強会、2004年、21頁。 
  3. ^ a b c 伊藤一美 著「斯波高経」、安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、268頁。 
  4. ^ 随相尋之足利又三郎宗氏(宗家息)、延慶二年三月廿九日請文者、岡成名父祖領知事、承久兵乱比、地頭・名主大略帰遠江守朝時之刻、安貞年中各以所領令寄附、即可補代官職之旨、就望申安堵訖、所務之次第為治息代〃賜宛文、済年貢畢、宛身依不領掌、不帯証状云々 (『朽木家文書』「正慶元年九月二十三日付北条茂時赤橋守時連署関東裁許状案」)

参考文献

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