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郷中

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
郷中教育から転送)

郷中(ごじゅう)は、薩摩藩武士階級子弟の教育法。類似するものに会津藩の「」がある。

概要

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郷中の起源は島津義弘によるとされている。また、郷中が教育組織としての機能を発揮するようになるのは江戸時代中期以後の事であり、現存する藩の法令でも島津吉貴が方限・郷中の綱紀粛正と文武奨励を命じる文章が出されるなど、その運営に苦心した事が明らかにされている。 薬丸自顕流が体育・思想教育として用いられたのは有名である。

安永2年(1773年)に藩校・造士館および武芸稽古場である演武館が創設されると、造士館・演武館以外の場における武術教授や、下級武士による郷中における集団的活動(兵児二才制度における行事など)は禁止された[1]

しかし、幕末に鎌田正純が郷中教育を活性化し、実際に西田方郷中の士風を刷新した。正純は、藩意の下、士風粛正の手段として文武を奨励し、剣術の稽古を出席制で行った。

明治維新で武士階級は消滅したが、舎は存続した。現在の鹿児島県では、青少年の社会教育の場として機能している舎は少なくなっている。

教育内容

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島津忠良が完成させた47首の「日新公いろは歌」や、新納忠元の作成した以下の「二才咄格式定目にせばなしかくしきじょうもく」を教育の根幹とした。

一.第一武道を嗜むべき事

一.兼ねて士の格式油断なく穿儀致すべき事

一.万一用事に付きて咄外の人に参会致し候はゞ用事相済み次第早速罷帰り長座致す間敷事

一.咄相中何色によらず、入魂に申合わせ候儀肝要たるべき事

一.朋党中無作法の過言互いに申し懸けず専ら古風を守るべき事

一.咄相中誰人にても他所に差越候節その場に於て相分かち難き儀到来致し候節は、幾度も相中得と穿儀致し越度之無き様相働くべき事

一.第一は虚言など申さざる儀士道の本意に候条、専らその旨を相守るべき事

一.山坂の達者は心懸くべき事

一.二才と申す者は、落鬢を斬り、大りはをとり候事にては之無き候 諸事武辺を心懸け心底忠孝之道に背かざる事第一の二才と申す物にて候 此儀は咄外の人絶えて知らざる事にて候

右条々堅固に相守るべし もしこの旨に相背き候はゞ二才と言ふべからず 軍神摩利支天八幡大菩薩 武運の冥加尽き果つべき儀


(略訳)

  • まず武道を嗜むこと
  • 武士道の本義を油断なく実践せよ
  • 用事で咄(グループ)外の集まりに出ても、用が済めば早く帰れ、長居するな
  • 何事も、グループ内でよく相談の上処理することが肝要である
  • 同輩に無作法なことを、やたらに話しかけるものではない。古風を守るべし
  • グループの誰であっても、他所に行って判らぬ点が出た場合には仲間とよく話し合い、落ち度の無いようにすべきである
  • 嘘を言わない事は士道の本意である、その旨をよく守るべし
  • 忠孝の道は大仰にするものではない。その旨心がけるべきであるが、必要なときには後れを取らぬことが武士の本質である
  • 山坂を歩いて体を鍛えよ
  • 二才(薩摩の若者)は髪型や外見に凝ったりするものではない。万事に質実剛健、忠孝の道に背かないことが二才の第一である。この事は部外者には判らぬものである

これらはすべて厳重に守らなくてはならない。背けば二才を名乗る資格はなく、軍神摩利支天八幡神の名において、武運尽き果てることは、疑いなきことである。


その他

  • 負けるな
  • 弱いものいじめをするな
  • たとえ僅かでも女に接することも、これを口上にのぼらせることも一切許さない
  • 金銭欲・利欲をもっとも卑しむべきこと 

など

区分

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4-5町四方を単位とする「方限(ほうぎり)」を基盤として、そこに含まれる区画や集落に居住する青少年を

  • 稚児(こちご、6-10歳)
  • 稚児(おせちご、11-15歳)
  • 二才(にせ、15-25歳)
  • 長老(おせんし、妻帯した先輩)

の4つのグループに編成したもの。

それぞれのグループで「頭(かしら)」(稚児頭、二才頭など)が選ばれ、頭は郷中での生活の一切を監督し、その責任を負った。郷中のメンバーは「舎」(健児の舎)に集まり武術や学問に励んだ。

郷中一覧

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当初の数は18であったが、幕末の頃には33と増加している。

上方限

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  • 紙屋谷
  • 上ノ原
  • 城ヶ谷
  • 岩崎
  • 冷水
  • 福昌寺
  • 内ノ丸
  • 横馬場
  • 中村
  • 実方

下方限

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脚注

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  1. ^ 竹下幸佑・酒井利信『近世の薩摩藩郷中における武芸教育に関する史的研究』(筑波大学)より「Ⅲ 考察」

関連項目

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