青木湯之助
青木 湯之助(あおき ゆのすけ、明治39年(1906年) - 昭和54年(1979年)12月27日)は、日本の実業家、俳優、タップダンサー。芸名は、郷 宏之(ごう ひろゆき)。和歌山県出身。レストランチェーン紅花(BENIHANA)創業者。日本橋のレストラン「紅花」の元社長・青木四郎は四男。
経歴
[編集]1906年(明治39年)、江戸時代は紀州徳川直参の旗本だった士族の青木家に生まれる。15歳のときに家出し、貨物船に密航を企てるが発見されて放り出され、大阪を放浪。旅芸人一座に拾われる[1]。タップダンサー稲葉実に師事し、大正末期から昭和初期にかけて俳優、タップダンサーとして活躍する。タップダンスの生徒だった、かつと結婚する。
1937年(昭和12年)日本橋にジャズ喫茶エリントンを開業する[2]。終戦後、焼け野原となった東京に汁粉屋「紅花」を新築開業したことが当たり、以降、本格的にコーヒーショップやレストランなど多角経営に乗り出し、洋食屋チェーン「紅花」を展開することとなる。店名の「紅花」の由来は、焼け野原に咲く1輪の赤い花を、妻かつが見つけたことから[3]。
洋食屋「紅花」の客であった日系二世の商社社長・前岡正美との交流をきっかけに、1955年以降、4回に亘り渡米[4]。
1961年(昭和39年)、妻かつ、3人の息子達らと共に力を合わせ、「BENIHANA OF TOKYO」第1号店をニューヨークのマンハッタン西56丁目に開業する。精進料理屋「バンブーハウス」を5,000ドルで買い取り、大改装した上での新装オープンだった。内装材には日本から運んだ合掌造りの梁や柱を使った[5]。続いて第2号店を東56丁目に[6]、第3号店をシカゴに開店[7]。その後、西海岸へ次々と店舗を出店していく[8]。
1971年、「BENIHANA OF TOKYO」とは別業態の「GASHO OF JAPAN」を四男である青木四郎と開業[9]。
1979年(昭和54年)12月27日3時40分、死去。享年73。
芸歴
[編集]著書
[編集]- 『東京で儲けた私』(1957年、学風書院)
- 『千客万来』(1959年、日本の百人全集第9巻、東京学風書院)
- 『ニューヨークで儲ける私 ― レストラン主人の欧米見聞記』(1960年、学風書院)
- 『私なら知恵で売る ― ベニハナ集団の勇気の物語』(1969年、日本経営出版社)
- 『見ろ!痛快に!儲ける!俺はアメリカで大暴れ』(1974年、ベストセラーシリーズ、ワニの本、KKベストセラーズ)
- 『水商売の天才戦術 ― コーヒーとステーキで儲けろ!』(1978年、ベストセラーシリーズ、ワニの本、KKベストセラーズ)
脚注・出典
[編集]- ^ 『私なら知恵で売る ベニハナ集団の勇気の物語』青木湯之助著、日本経営出版会刊 書籍コード0034-30400-5822 P.7
- ^ 『見ろ!痛快に!儲ける!』青木湯之助著、KKベストセラーズ刊 書籍コード0233-011234-7617 P.28
- ^ 『見ろ!痛快に!儲ける!』 P.45
- ^ 『私なら知恵で売る ベニハナ集団の勇気の物語』P.3
- ^ 『見ろ!痛快に!儲ける!』 P.87
- ^ 『私なら知恵で売る ベニハナ集団の勇気の物語』P.170
- ^ 『私なら知恵で売る ベニハナ集団の勇気の物語』P.195
- ^ 『私なら知恵で売る ベニハナ集団の勇気の物語』P.224
- ^ 『見ろ!痛快に!儲ける!』 P.174