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鄭商熙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鄭商煕から転送)

鄭 商熙(チョン・サンヒ、朝鮮語: 정상희1907年8月7日 - 1981年3月7日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国実業家政治家サムスングループ重役、第4・5代韓国国会議員[1]

本貫温陽鄭氏朝鮮語版[2]新世界グループの実業家の鄭在恩朝鮮語版は息子、李秉喆の末娘の李明熙朝鮮語版はその妻。実業家の鄭溶鎮(女優コ・ヒョンジョンの元夫)は孫、鄭有慶朝鮮語版は孫娘[3]

経歴

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忠清北道中原郡(現・忠州市)出身。ソウル養正高等普通学校(現・養正高等学校朝鮮語版)を経て、1930年に上海交通大学1年修了、1935年に明治大学法学部卒。明治大学名誉博士(1974年)。1939年より協信産業商社代表を務め、解放後は1948年に大韓体育会理事長、大韓陸上競技連盟理事長、大韓オリンピック委員会常任委員、1949年に三護紡績・三護貿易副社長、1954年に第2回アジア競技大会韓国選手団総監督、1956年に同和通信副社長、1956年メルボルンオリンピック韓国選手団総監督、1957年に第一火災海上保険株式会社社長、大韓体育会理事長、1958年に第3回アジア競技大会韓国選手団総監督、自由党中原郡党委員長を務めた。1958年の第4代総選挙では自由党の候補として初当選し、1960年の第5代総選挙では無所属で当選したが、自由党出身という理由でその後に公民権制限審査に引っかかった。国会議員退任後は1961年に大韓紡績協会理事、1968年に三護紡織貿易株式会社会長、1969年にサムスン電子社長、1970年にサムスン物産社長、東邦生命保険会長、1971年に大韓陸上競技連盟会長、大韓オリンピック委員会委員を歴任した[2][1][4]

1981年に持病により死去。享年75。[要出典]

脚注

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  1. ^ a b 대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2024年11月1日閲覧。
  2. ^ a b 손희두, “정상희 (鄭商熙)” (朝鮮語), 韓国民族文化大百科事典 (韓国学中央研究院), https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0050353 2024年11月2日閲覧。 
  3. ^ 조충희 (2021年1月6日). “[Who Is ?] 정용진 신세계그룹 부회장” (朝鮮語). 비즈니스포스트. 2024年11月2日閲覧。
  4. ^ 근현대인물자료 < 한국 근대 사료 DB”. db.history.go.kr. 2024年11月2日閲覧。