金井之恭
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(金井文八郎から転送)
金井 之恭(かない ゆきやす、天保4年9月18日(1833年10月30日) - 明治40年(1907年)5月13日)は幕末期の志士、明治期の官僚、書家。通称は文八郎[1]。字は子誠。号は金洞(きんどう)・錦鶏など。変名に金井五郎・桑原梧楼などがある。長女は弁護士で政治家の小川平吉に嫁ぐ。錦鶏間祗候。
経歴
[編集]1833年9月、上野国佐位郡島村(現在の群馬県伊勢崎市)に画家で勤皇家の父・烏洲の四男として生まれる。金井氏は新田氏支族岩松氏の流れを汲むとされる。幼少の頃から文学を好み、また書もよくした。1867年、新田義貞の末裔とされる新田満次郎を擁し倒幕の挙兵を企てるが、事が露顕して投獄される。1868年9月、東京府市政局に出仕。
1869年8月、太政官少史。1874年1月、権少内史。1882年、内閣大書記官。1888年、元老院議官。1890年10月20日、元老院が廃止され非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられ[2]、1891年4月21日、非職元元老院議官を依願免本官となる[3]。同年4月15日、貴族院勅選議員[4]。1907年、浜松で客死。墓所は青山霊園(1ロ17-11~13)。
人物
[編集]書は初め中沢雪城に学び、のち貫名菘翁の書風に傾倒した[5]。明治書壇の有数の大家であり、日本書道会・書道奨励会の会長等を歴任し、明治9年4月に明治天皇が大久保利通邸を訪問した際には、日下部鳴鶴とともに席書を行った。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
筆跡
[編集]- 高野長英の碑
- 北条時宗偉功碑
- 山田方谷遺蹟碑
この他全国に150基以上の石碑を残している[14]。
著書
[編集]- 『高山操志』
脚注
[編集]- ^ 成田山 P.57
- ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
- ^ 『官報』第2340号、明治24年4月22日。
- ^ 『官報』第2335号、明治24年4月16日。
- ^ 書道辞典(飯島) P.120
- ^ 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号110
- ^ 『官報』第1019号「叙任」1886年11月20日。
- ^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
- ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』第1952号「叙任及辞令」1889年12月28日。
- ^ 書道辞典(西川) P.28
- ^ 近藤 P.194
- ^ 林淳『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』収録「金井金洞石碑一覧表」(勝山城博物館、2017年)
参考文献
[編集]- 奥山錦洞 『日本書道史』藤森書店、1982年(清教社、1943年の覆刻版)
- 西川寧ほか 「書道辞典」(『書道講座』第8巻 二玄社、1969年7月)
- 「図説日本書道史」(『墨スペシャル』第12号 芸術新聞社、1992年7月)
- 近藤高史 「名品鑑賞 明治」
- 飯島春敬ほか 『書道辞典』(東京堂出版、1975年4月)
- 『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』勝山城博物館発行 林淳著 2017年4月
- 成田山書道美術館編『日本の書 維新〜昭和初期』(二玄社、初版2009年)ISBN 978-4-544-01079-4
- 長谷川伸『相楽総三とその同志』(講談社学術文庫、2015年2月10日)ISBN 978-4-06-292280-7