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長谷部信連

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長谷部まつりから転送)
 
長谷部信連
長谷部信連(月岡芳年画『高倉月』)
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 不詳
死没 建保6年10月27日1218年11月16日
別名 長兵衛尉(通称)
官位兵衛尉、贈従五位
幕府 鎌倉幕府
主君 以仁王源頼朝
氏族 長谷部連長谷部氏
父母 父:長谷部為連
兄弟 信連景連
正室:由利氏女(由利維平後家?)
朝連景信行連仲連良連実信
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長谷部 信連(はせべ のぶつら)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。右允・長谷部為連の子。長氏の祖。

生涯

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長谷部信連(菊池容斎『前賢故実』)

人となりは胆勇あり、滝口武者として常磐殿に入った強盗を捕らえた功績により左兵衛尉に任ぜられた。後に以仁王に仕えた[1]治承4年(1180年)に王が源頼政と謀った平氏追討の計画(以仁王の挙兵)が発覚したとき、以仁王を園城寺に逃がし、検非違使の討手に単身で立ち向かった。奮戦するが捕らえられ、六波羅で平宗盛に詰問されるも屈するところなく、以仁王の行方を洩らそうとしなかった。平清盛はその勇烈を賞して、伯耆国日野郡に流した(『平家物語』巻第4「信連」)。

平家滅亡後、源頼朝より安芸国検非違使所に補される。能登国鳳至郡大屋荘(現在の石川県輪島市穴水町にかけての地域[2])の地頭職補任された[3]文治2年(1186年)、穴水城主として入城した[4]

大正5年(1916年)、従五位を追贈された[5]

昭和31年(1956年)4月30日、「長谷部信連の墳墓」が輪島市の指定史跡となった[6]

子孫

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信連の子孫は能登国穴水の国人として存続し、長氏を称して能登畠山氏加賀前田氏に仕えた。また、曹洞宗の大本山である總持寺の保護者となり、その門前町を勢力圏に収めて栄えた。

長谷部まつり

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現在、長氏ゆかりの穴水町では、信連を偲び、「長谷部まつり」が行われている[4]。平成24年(2012年)の第50回記念のまつりの武者行列では、信連役を二代林家三平が、奥方役を国分佐智子が務めた[7]

来迎寺

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弘仁5年(814年)、嵯峨天皇勅願により創建された[8]。信連の祈願寺となり、寺号を「来迎寺」と改めた。信連が高倉天皇から賜った観世音菩薩像や嵯峨天皇御親筆勅額などの寺宝を収蔵している[8]

長谷部神社

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信連が、死に際して、自作の座像を刻んで来迎寺御影堂に安置したのが、長谷部神社の起こりとされる[9][10]

脚注

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  1. ^ 細川 2022, p. 326.
  2. ^ 長谷部信連の塚|輪島たび結び”. 輪島市観光協会. 2022年11月23日閲覧。
  3. ^ 輪島市文化財保存活用地域計画「第2章_輪島市の歴史文化遺産の概要と特徴」” (PDF). 輪島市教育委員会. p. 7. 2022年11月23日閲覧。
  4. ^ a b 祭り・文化”. 穴水町. 2022年11月22日閲覧。
  5. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.41
  6. ^ 指定文化財一覧表 令和4年7月31日時点” (PDF). 輪島市教育委員会. p. 5. 2022年11月23日閲覧。
  7. ^ 林家三平さん夫婦が殿と奥方に 穴水で長谷部まつり北国新聞2012年7月23日(2014年3月20日閲覧)[リンク切れ]。林家三平の母である海老名香葉子が昭和20年(1945年)の終戦前後に穴水町に疎開していたことがあり、現在も穴水町と林家一門と交流を続けていることによる(海老名香葉子は平成24年(2012年)に穴水の名誉町民になる)。
  8. ^ a b 来迎寺”. 来迎寺. 2022年11月23日閲覧。
  9. ^ 長谷部神社”. 穴水町. 2022年11月22日閲覧。
  10. ^ 長谷部神社(鳳珠郡穴水町川島ウ29)”. 石川県神社庁. 2022年11月22日閲覧。

参考文献

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  • 細川重男『宝治合戦 北条得宗家と三浦一族の最終戦争』朝日新聞出版朝日新書 876〉、2022年8月30日。ISBN 978-4-02-295185-4 

関連文献

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外部リンク

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