陳嘉佑
陳嘉佑 | |
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プロフィール | |
出生: | 1881年(清光緒7年) |
死去: |
1937年(民国26年)1月27日 中華民国 |
出身地: | 清湖南省長沙府湘陰県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 陳嘉佑 |
簡体字: | 陈嘉佑 |
拼音: | Chén Jiāyòu |
ラテン字: | Ch'en Chia-you |
和名表記: | ちん かゆう |
発音転記: | チェン ジアヨウ |
陳 嘉佑[1](ちん かゆう、繁体字: 陳嘉佑; 簡体字: 陈嘉佑; 繁体字: 陳嘉佑; 拼音: Chén Jiāyòu; ウェード式: Ch'en Chia-you)は、清末・中華民国の軍人。湖南軍(湘軍)出身の軍人で、後に国民革命軍に属した。国民政府時代は反蔣介石派の軍人と目されている。字は護方、護黄。
事跡
[編集]初期の活動
[編集]清末に日本に留学し、1911年に陸軍士官学校第8期歩兵科を卒業した。1912年(民国元年)に湖南陸軍(湘軍)砲兵団団長に任命され、翌年3月、北京政府から陸軍歩兵上校に任ぜられる。
1915年(民国4年)12月、護国戦争の勃発に際して湖南省の実力者である譚延闓の推薦で、陳嘉佑は湖南護国軍の第1師第4梯団団長、第2師第3旅旅長と歴任した。以後、湖南省内では譚支持派の軍人と目されることになる。1916年(民国5年)11月、湘軍暫編第2師歩兵第3旅旅長に就任し、翌年3月、陸軍少将位を授与された。1920年(民国9年)、湖南整編第7防区司令となり、同年11月、湘軍第6混成旅旅長に任ぜられる。
1922年(民国11年)5月、陳炯明の反孫文(孫中山)クーデターに伴い、陳嘉佑は討賊湘軍第1路司令に任ぜられ、翌年8月、討賊湘軍第1軍軍長となっている。その後、広東省へ軍を率いて移り、駐粤湘軍第5軍軍長兼第8師師長となった。1924年(民国13年)1月、中国国民党第1回全国代表大会に代表として出席している。翌年初めに、湘軍整理処副総監兼湘軍講武堂堂長となり、同年8月、駐粤湘軍を改組した建国湘軍で第2軍教導師師長に任ぜられた。
北伐以後
[編集]1926年(民国15年)1月、陳嘉佑は国民党第2期中央執行委員候補に選出され、翌月、建国湘軍は国民革命軍第2軍に改編、陳が同軍軍長に抜擢された。7月、北伐が開始されると、陳は広東の留守を委ねられ、韶関警備司令を兼任している。1927年(民国16年)5月、武漢国民政府から第13軍軍長に任命され、9月には国民政府軍事委員会委員も兼任している。同年11月、唐生智が寧漢戦争を起こすと陳も唐を支持したが、蔣介石派の広東北路総指揮銭大鈞に敗北し、湖南省へ撤退した。
1928年(民国17年)1月、陳嘉佑の軍は国民革命軍第14軍に改称される。同年2月、周斕の後任として湖南省政府主席に任ぜられ、さらに国民党第2期4中全会で中央執行委員に選出された。5月に魯滌平が省政府主席に任ぜられると、省政府委員兼民政庁庁長に移っている[2]。1929年(民国18年)3月、第2編遣区弁事処委員を兼任し、さらに国民党第3期中央監察委員候補に選出された。
1930年(民国19年)、反蔣派による国民党北平拡大会議が開催されると、陳嘉佑もこれに参加し、民衆訓練委員会委員に任ぜられる。しかし同年の中原大戦で反蔣派は敗北し、9月に陳は湖南省政府委員から罷免、さらに11月には国民党籍からの永久除籍処分まで受けた。1931年(民国20年)の満州事変(九・一八事変)勃発に伴う大同団結により、陳は国民党籍を回復、さらに11月には第4期中央監察委員候補に選出されている(1935年11月の第5期でも再選)。
1937年(民国26年)1月27日、病没。享年57。
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
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