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陶興昌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
陶興昌
時代 戦国時代
生誕 永正2年(1505年
死没 享禄2年4月23日1529年5月30日
別名 興次
戒名 信衣院春翁透初
主君 大内義興義隆
氏族 陶氏
父母 父:陶興房、母:右田弘詮の娘
兄弟 興昌隆房(晴賢)隆信
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陶 興昌(すえ おきまさ)は、戦国時代の武将。大内氏家臣。陶興房の長男で、隆房(晴賢)の兄。

生涯

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海印寺(山口県周南市大字下上横矢)に安置されている陶興昌供養のための宝篋印塔。

永正元年(1504年)、興昌は陶興房の長男として生まれた[1]

安芸国からの帰陣

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戦国時代厳島神社神官野坂房顕の覚書には、大永5年(1525年)3月18日、父の陶興房とともに安芸国佐西郡に在陣していた「陶ノ次郎興次」が、療養の為に帰国する際のことが記されている[2]。この「次郎興次」が当時の興昌であったと推定される[3]。父興房は大永2年(1523年)から同国において、安芸武田氏武田光和厳島神主家友田興藤らと激しい戦いを繰り広げていた[4]

興昌は岩戸(現・広島県廿日市市佐方)の陣から、船で帰国の途についた。父興房は沖まで出て見送った。他にも厳島に駐屯していた弘中武長や大内方水軍の諸将、野坂房顕らが船中に挨拶の為に訪れた。父子の別離に、武長らは涙していたと房顕は覚書に記している[2]

最期

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享禄2年(1529年)4月23日、興昌は死去した。享年は25歳とされる[5]山口県周南市大字下上横矢にある海印寺には興昌の供養塔が保存されている。小宝篋印塔の塔身には「春翁透初/享禄二六月十二日」とあり、興昌の法名と紀年が刻まれている[6]。興昌の死去後四十九日の造立であったことが分かる。

脚注

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  1. ^ 御園生翁甫『新撰大内氏系図』(『近世防長諸家系図綜覧』付録 1966年)
  2. ^ a b 福田直記 編著 『棚守房顕覚書 付解説』 宮島町 1975年 p.41~42
  3. ^ 御園生翁甫『新撰大内氏系図』(『近世防長諸家系図綜覧』付録 1966年)では、興昌について「或興次」と記している
  4. ^ 河村昭一 『安芸武田氏』戎光祥出版 2010年 p.113〜p.118
  5. ^ 御園生翁甫『新撰大内氏系図』(『近世防長諸家系図綜覧』付録 1966年)では、「享禄二年四月廿三日死二十五歳」とされている。
  6. ^ 『徳山市社寺文化財調査報告書』 1991年 p.151

参考文献

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  • 播磨定男 『山口県の歴史と文化』 大学教育出版 2002年 ISBN 4-88730-475-7
  • 福田直記 編著 『棚守房顕覚書 付解説』 宮島町 1975年