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'''田原 成貴'''(たばら せいき、[[1959年]][[1月15日]] - )は覚醒剤取締法違反の犯罪者。
{{捜査・裁判中の刑事事件}}
{{騎手
|画 = [[ファイル:Fight Galiver 19960407.jpg|250px]]
|説 = [[ファイトガリバー]]に騎乗<br />(1996年4月7日・第56回[[桜花賞]] [[阪神競馬場]])
|名 = 田原成貴
|国 = {{JPN}}
|出 = [[島根県]][[鹿足郡]][[柿木村]]<br />(現・[[吉賀町]])
|生 = {{生年月日と年齢|1959|1|15}}
|死 =
|身 = 169cm(騎手引退時)
|体 = 51kg(騎手引退時)
|血 =
|団 = [[日本中央競馬会]]
|厩 = [[谷八郎]](1978年 - 1989年)<br />[[フリーランス|フリー]](1989年 - 引退)
|主 =
|服 =
|初 = [[1978年]]
|区 = [[平地競走]]
|引 = [[1998年]][[2月21日]](最終騎乗)
|重 = 65勝
|G1 = 15勝
|通 = 8648戦1112勝
|調初 = [[1998年]]
|調引 = [[2001年]][[12月21日]](免許剥奪)
|調重 = 1勝
|調G1 = 0勝
|調通 = 284戦35勝
|所 = [[栗東トレーニングセンター]]<br />(1978年 - 2001年)
}}
{{漫画}}
{{文学}}
'''田原 成貴'''(たばら せいき、[[1959年]][[1月15日]] - )は[[日本中央競馬会]]に所属した[[騎手]]、[[調教師]]である。[[島根県]][[鹿足郡]][[柿木村]](現在の[[吉賀町]])出身。卓越した騎乗技術と端正な容姿で、騎手時代には「元祖天才」、「競馬界の[[坂東玉三郎 (5代目)|玉三郎]]」と呼ばれた。[[競馬の競走格付け|GI級競走]]15勝。1983-1984年中央競馬全国[[リーディングジョッキー]]。[[漫画原作者]]、[[作家]]([[エッセイスト]])など文筆業も行う。

== 経歴 ==
=== 少年期 ===
1959年、島根県柿木村に生まれる。子供の頃は歌手を夢見、[[ザ・テンプターズ]]の[[萩原健一]]がアイドルであった。実家は競馬とは関わりのない家庭であったが、[[1973年]]の[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]において、当時国民的なアイドルホースであった[[ハイセイコー]]を、[[嶋田功]]騎乗の[[タケホープ]]が破ったことに強い感銘を受け、騎手を志した<ref>田原(1998)pp.35-36</ref>。田原は嶋田の[[ガッツポーズ]]を見て「日本一強い馬を、あの人がやっつけた」と感じたといい、もしタケホープに乗っていたのがもっと地味な騎手であったら、騎手を志していないか、自身も地味な騎手になっただろうと回想している<ref>田原(1998)pp.36-37</ref>。

中学校在学中に[[日本中央競馬会]]の[[馬事公苑]]騎手養成長期課程を受験し合格。卒業後、第25期生として入所した。自身の回想に依れば、馬事公苑、[[競馬学校]]の全卒業生の中で「脱走の回数や素早さにかけては間違いなく一番」であり、しばしば苑を抜け出しては、バーで飲酒していたという<ref>田原(1998)pp.58-59</ref>。

2年次に入り、研修生として[[滋賀県]][[栗東トレーニングセンター]]の[[谷八郎]][[厩舎]]に入門。当時「[[必殺仕事人]]」と称された[[田島良保]]の弟弟子となり、騎乗技術の習得に勤しんだ<ref group="注">田原は田島を「仮想敵に据えた」としている(田原、1998 p.61)。</ref>。騎手課程修了後の[[1977年]]に騎手免許試験を受験するも落第、翌1978年の受験で改めて合格し、谷厩舎所属騎手としてデビューを迎える。同期には[[昆貢]]、[[嘉堂信雄]]、[[安藤賢一]]らがいる。馬事公苑入所時には身長155cm<ref name="tabara">『Sports Graphic Number PLUS』p.64</ref>であったが、この頃には168cmに伸びており、[[武邦彦]](172cm)に次ぐ長身騎手であった。

=== 騎手時代 ===
同年[[3月4日]]、[[阪神競馬場|阪神競馬]]第3競走でデビュー。厩舎所属馬のテンシンニシキで初騎乗・初勝利を挙げた。同年10月、リョクシュに騎乗して[[タマツバキ記念]]を制し、[[重賞]]初勝利。当年28勝を挙げ、[[関西放送記者クラブ賞]](関西新人賞)を受賞した。翌1979年には64勝を挙げ、デビュー2年目にして関西リーディングジョッキーを獲得<ref group="注">全国順位では2位。リーディングの[[郷原洋行]]とは1勝差であった。</ref>。当年3月に「天才」と呼ばれていた[[福永洋一]]が落馬事故で騎手生命を絶たれ、田原は福永に代わる新たな「天才騎手」として注目を集めた<ref name="tabara" />。以後、[[1980年代]]前半は、同じく関西所属の[[河内洋]]と毎年のリーディング争いを演じ、「河内洋が東を向けば、田原成貴は西を向く」と言われるライバル関係となった<ref>田原(1998)p.93</ref>。1983年12月、[[リードホーユー]]で[[有馬記念]]に優勝し、[[八大競走]]初制覇を果たす。同馬の[[主戦騎手]]は河内が務めており、その落馬負傷の代役として臨んでの勝利であった。また、当年の2回[[中京競馬場|中京開催]]では20勝を挙げ、一開催の最多勝利記録(当時)を更新。年間では104勝を挙げ、2位の河内を抑えて初の全国リーディングジョッキーを獲得した。

翌1984年は、[[グレード制]]導入後最初のGI競走となった[[桜花賞]]を[[ダイアナソロン]]で優勝。年間勝利数も101を数え、2年連続の全国リーディングジョッキーとなった。しかしシーズン中に2度落馬して右肩を痛め、翌年は騎乗数の制限を余儀なくされた<ref>田原(1998)pp.116-117</ref>。

==== 二度の落馬負傷 ====

1986年は怪我の回復を得て、年頭からリーディング争いの上位に付けた。しかし6月21日、中京競馬第2競走のレース中、騎乗馬ワイエムヤマドリが故障を発生して転倒。馬場に投げ出された田原は後続馬に腹部を蹴られ、左[[腎臓]]および[[脾臓]]損傷という重傷を負った<ref>田原(1998)pp.120-121</ref>。左腎臓は摘出され、当初、全治には半年から1年を要するとされた<ref>田原(1998)p.122</ref>。しかし田原は9月に復帰し、1日1鞍という制限を掛けて騎乗を再開<ref>田原(1998)p.127</ref>。年末にはスポーツ紙に「全快宣言」を出して騎乗制限も止め<ref>田原(1998)p.129</ref>、翌1987年からは再び通常通りの騎乗を始める。この年、[[マックスビューティ]]と共に桜花賞、[[優駿牝馬|優駿牝馬(オークス)]]に優勝し、復活を印象付けた。

1989年には[[コガネタイフウ]]で[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳ステークス]]を制し、GI級競走7勝目を挙げる。しかし翌1990年3月、そのコガネタイフウを駆っての[[ペガサスステークス]]競走中、進出してきたニホンピロエイブルに馬が脚を掠われ、転倒落馬<ref group="注">ニホンピロエイブルは7位に入線したが失格、騎手の[[松永幹夫]]は騎乗停止処分となった。</ref>。第2・3[[脊髄|腰椎]]および[[骨盤]]を骨折した。およそ1ヶ月後に復帰したものの、騎座に重要な腰の怪我でもあり、以後田原は引退まで騎乗数を制限するようになった。後に「数多く勝つことよりも、馬乗りとしての自分を磨こうと考えるようになった」と語っている<ref name="tabara2">『Sports Graphic Number PLUS』p.69</ref>。
[[ファイル:Max beauty.jpg|マックスビューティと田原<br /><small>(1987年10月25日・ローズステークス)</small>|thumb|200px]]

==== 1990年代 - 引退 ====
1993年12月、田原は[[トウカイテイオー]]で有馬記念に優勝。同馬は前年の有馬記念でも田原が騎乗していたが11着と大敗、その後の休養から363日振りのレースでの勝利となり、田原がインタビューや口取り撮影で感極まり、涙を流す様子が話題となった。「大した馬だな、ちょっとでも勝利を疑って悪かったな」という思いから涙が出たと回想しており<ref>田原(1998)p.161</ref>、トウカイテイオーが自身が騎乗した内の最強馬であるとしている<ref>『Sports Graphic Number PLUS』p.22</ref>。
翌1994年9月には史上11人目となる通算1000勝を達成する。翌1995年以降、田原は[[マヤノトップガン]]、[[フラワーパーク]]、[[ワンダーパヒューム]]、[[ファイトガリバー]]に騎乗して次々とGI競走を制し、騎手生活晩年の3年間で8つのGIタイトルを獲得した。この前後の時期から漫画原作やエッセイなどの文筆活動を盛んに行うようになり、大レースでの活躍も相まって競馬ファンからは全盛期以上の人気を得るようになった。田原は当初1996年限りの引退を考えていたが、「自分に花を与えてくれた」マヤノトップガンとフラワーパークが1997年以降も現役を続行したため、これに合わせて引退を1年先延ばしにしていた<ref>田原(1998)pp.197-198</ref>。
[[ファイル:Brian and topgun.jpg|マヤノトップガンに騎乗(左)<br />[[武豊]]・[[ナリタブライアン]]と競り合う<br /><small>(1996年3月9日・阪神大賞典)</small>|thumb|200px]]
1998年2月21日、2回[[京都競馬場|京都競馬]]第9競走でメガラに騎乗し、2着。これを最後に騎手生活から退いた。翌22日、マックスビューティ、マヤノトップガンを所有する[[田所祐]]の[[勝負服 (競馬)|勝負服]]を着用し、同じく調教師を引退する師匠・谷八郎らと共に引退式に出席した。通算8648戦1112勝、重賞65勝。通算1000勝以上で30代の内に引退した騎手は、田原が初めての例であった。


=== 騎手引退以後 ===
==== 調教師時代 ====
1987年度より、JRAにおいて中央競馬の騎手として1000勝以上の勝利を挙げると調教師試験の一次試験が免除されるシステムが制定され、田原もその制度を利用して調教師免許を取得すべく、[[1997年]]秋に調教師試験の願書を提出。翌[[1998年]]2月に二次試験を合格して正式に調教師に転身することとなった。

騎手引退後は1年間を調教師としての勉強に充て(いわゆる[[技術調教師]]。この頃[[藤沢和雄]]の下で修行していた時期もある)、[[1999年]]、栗東トレーニングセンターに自身の厩舎を開業。厩舎の「チームカラー」を黒で統一し、「黒の軍団チーム田原」という愛称を付けて活動。厩舎で使用する軽トラックのニックネームを公募したり、「サテライト」と称する公式[[ファンクラブ]]の結成、オリジナルグッズ販売など、ユニークな運営で注目された。

開業当初は「フサイチ」の冠名を使用する[[関口房朗]]や、現役騎手時代から親交があった[[土井肇]]、[[西山茂行]]といった有力馬主の支援を受け、[[4月10日]]、[[藤田伸二]]騎乗のフサイチゴールドで騎手時代同様、初出走で初勝利を挙げる。翌[[2000年]]、[[フサイチゼノン]]で[[弥生賞]]を制し重賞初制覇した。しかし[[皐月賞]]へ向けての馬の状態を巡り関口と対立。同競走の回避を独断で行なったことに関口が激怒し、同馬は[[森秀行]]厩舎へ移籍。他の関口所有馬も多くが他厩舎へ転厩した。

2001年7月には管理馬の耳に小型発信装置を取り付けて調教を行っていたことが発覚。過怠金50万円を課せられた。

なお、本項には「上記の田原の奇怪な行動などにより『時代の変化により、騎手としての実績のある者が必ずしも調教師として適切な資質があるとは限らなくなった』との理由で調教師一次試験免除のシステムが[[2003年]]の試験をもって廃止されるきっかけとなった」という記述があった。田原は雑誌『[[競馬最強の法則]]』[[2009年]]9月号でこの記述を取り上げ「自分が(1度目の)事件を起こす前からこのシステムの廃止は決定していた。訂正しておいてほしい」という旨の発言をしている。

==== 1度目の逮捕とそれによる調教師免許剥奪 ====
2001年10月8日、[[アメリカ同時多発テロ事件]]直後で厳戒な警備体制の敷かれる中、[[東京国際空港|羽田空港]]で機内にナイフを持ち込もうとして身柄を拘束される。手荷物検査でナイフの所持が発覚したため、[[銃砲刀剣類所持等取締法|銃刀法]]違反の現行犯で[[警視庁]][[東京空港警察署]]に[[逮捕]]された。その後の東京空港警察署内での身体検査で[[覚醒剤]]を所持していることも発覚し、[[覚せい剤取締法]]違反で再逮捕される。

これに対して、JRA裁定委員会は田原の調教師免許剥奪を審議。12月21日に田原に対する聴聞(弁明)機会を設けたが、田原は聴聞に現れず、同日付で調教師免許剥奪が決定した<ref>『優駿』2002年2月号 p.108</ref>。6日後の12月27日、[[東京地方裁判所|東京地裁]]で懲役2年・執行猶予3年の判決を受け、[[控訴]]は無く刑が確定。これを受けた2002年1月18日、JRA裁定委員会は、[[2017年]]1月18日まで15年間の競馬への関与を停止([[トレーニングセンター]]などへの立入禁止など)する処分を発表した<ref>『優駿』2002年3月号 p.115</ref><ref>[http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2002/seisai.pdf 成績公報に掲載する制裁等について(平成14年度)]</ref>。

その後、2002年5月に自身の覚醒剤の経験を記した『いかれポンチ』を出版。一方で有料制の競馬予想ホームページを開設し、また雑誌『[[競馬最強の法則]]』でコラムを連載し、予想家・評論家として活動を続けていた。

==== 2度目・3度目の逮捕 ====
しかし執行猶予判決から7年が経過した2009年10月14日、覚せい剤取締法及び[[大麻取締法]]違反容疑により[[京都府警察|京都府警]][[東山警察署]]に再び逮捕され<ref> {{Cite news|url=http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009102200019&genre=C1&area=K00|title=田原成貴容疑者を逮捕 JRA元騎手覚せい剤と大麻で|newspaper=[[京都新聞]]|date=2009-10-22|accessdate=2009-10-22}}</ref>、その後起訴となった。2010年1月21日、[[京都地方裁判所|京都地裁]]より懲役10月、執行猶予4年の有罪判決を受けた。これにより競馬関与停止期間を無期限へと延長されている<ref>1度目の逮捕当時は競馬関与停止期間の最大が15年であったが、その後[[2007年]]に[[日本中央競馬会競馬施行規程]]の改正により無期限も新たに設定された。この処分により田原が無期限の適用者第1号となった。</ref>。このときの取り調べでは、刑事より職業を聞かれた際に「今は作家です」と返答した。

その後、2010年9月2日に同居男性に対する[[傷害罪|傷害]]容疑などで京都府警[[七条警察署]]に逮捕・起訴された<ref>[http://www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/200902035.html 田原成貴元騎手を傷害で逮捕 大麻で執行猶予中(テレビ朝日)]{{リンク切れ|date=2010年9月}}
</ref>。執行猶予中にも覚醒剤を使用したと供述した<ref>[http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20100904-OYO1T00687.htm?from=main2 「覚せい剤使った」、元騎手・田原容疑者が供述](YOMIURI ONLINE、2010年9月4日){{リンク切れ|date=2010年9月}}
</ref>。尿検査の結果、同年9月27日に拘置されていた同署により覚せい剤取締法違反容疑で再逮捕された<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0927/OSK201009270034.html 田原元騎手「西成で買った」 覚せい剤使用容疑で再逮捕(asahi.com)]</ref>。

== 人物 ==
=== 騎手としての特徴・評価 ===
田原は自らの騎手としての特徴を「良く言えば感覚、悪く言えば狂気の部分」とする<ref>『優駿』1994年3月号 p.12</ref>。一方で理論家としても知られ、「騎乗理論を説明した上で、優れた騎手というのはこうだ、[[岡部幸雄]]さんはこうだ、[[武豊]]はこれがこうできるから優れているということは言える」と語り<ref name="tabara3">『優駿』1994年4月号 p.48</ref>、一般ファンが目にするインタビューやエッセイにおいて、しばしば騎乗の要点を解説していた。しかし[[福永洋一]]だけは「説明できないレベルの物をひとつ持っていた」と評し<ref name="tabara3" />、福永の後継者として「天才」とされたことに対して「俺は天才なんかじゃない」と、自らの異名を否定している<ref name="tabara" />。一方で、福永と親しかった[[杉本清]]は意外性のある騎手と評し、「福永洋一ほど極端ではないが、タイプとしては洋一タイプと言えるだろう」としている<ref>杉本(1997)p.217</ref>。また、作家の[[高橋三千綱]]も「福永さんと田原さんは似ている」と評した<ref name="tabara3" />。師匠の谷は、田原の具体的な長所として「敏感なところ。馬の性質を細やかに察知し、自分のものにして乗っていた」部分としている<ref>『Sports Graphic Number PLUS』p.66</ref>。

兄弟子の田島良保は、田原の全盛期を最初の落馬直前の時期と捉えており、この頃の騎乗を評して「何よりも気迫がずば抜けていた。さらに若さもあったし、思い切りが良く、読みも冴えていた。弾けるようなレースというのか、同じ騎手として嫉妬を感じるところもありましたね」と述べ<ref name="tabara4">『Sports Graphic Number PLUS』p.68</ref>、「20代後半の頃の成貴のような迫力のある騎手は、もう出ないんじゃないですか」と絶賛している<ref name="tabara2" />。また、同時期に競馬学校を卒業した武豊は、兄弟子の河内洋と田原を最も参考にしたといい、「僕にとってのアイドルだった」と回想している<ref>『Sports Graphic Number PLUS』p.52</ref>。

=== 文筆・音楽活動 ===
田原は騎手以外にも、様々な分野に活動の場を広げていた。特に執筆活動が顕著であり、1993年から[[土田世紀]]執筆による漫画作品『[[ありゃ馬こりゃ馬]]』の原作を担当。単行本全17巻で累計200万部を売り上げた。最初に執筆活動を勧めたのは漫画原作者の[[武論尊]]であったという<ref>田原(1998)p.163</ref>。漫画原作では他に[[本宮ひろ志]]との共作による『勝算』など計5作品があり、[[能田茂]]と共作した『[[法の庭]]』は2007年に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]で2時間ドラマ化された。

また、1996年に出版したエッセイ・対談集『競馬場の風来坊』は、[[紀伊国屋書店]]集計の[[ノンフィクション]]部門で2週連続の1位を獲得。刊行数100万部を越えるヒット作となった。作家としても前述の『いかれポンチ』を執筆した。

一方で音楽の分野ではシングルとアルバムを1枚ずつ発売したが、こちらではヒットとはならなかった。

== 騎手生活中の騒動 ==
騎手として華々しい活躍をする一方、その騎乗・発言を巡って様々な騒動を引き起こした。以下、騎手生活中にあった主なものについて、概要を記述する。それぞれの詳細はリンク先を参照のこと。
[[ファイル:Saruno king.jpg|サルノキングと田原<br /><small>(1981年10月18日・京都3歳ステークス)</small>|thumb|200px]]
;[[サルノキング事件]]
:1982年の[[スプリングステークス]]で[[サルノキング]]に騎乗した際、極端な後方待機策から敗戦、優勝した[[ハギノカムイオー]]とサルノキングが同馬主であったため[[八百長]]疑惑を掛けられた事件。サルノキングは競走中に骨折もしていた。田原自身は「馬の力を出し切る競馬」と一貫して疑惑を完全否定しており<ref>田原(1998)p.110</ref>、日本中央競馬会の公式見解としても「敗因は骨折」とされている<ref>田原(1998)p.112</ref>。
;[[ステートジャガー事件]]
:1985年の[[宝塚記念]]競走後、田原の騎乗馬[[ステートジャガー]]から禁止薬物の[[カフェイン]]が検出された事件。これは田原が引き起こしたものではないが、警察から事情聴取を受けた。この件は田原など関係者への嫌疑は晴れたものの、犯人が判明しないまま捜査が打ち切られている<ref name="tabara4" />。
;マックスビューティからの降板
:1988年、二冠牝馬マックスビューティの不振を受け、田原が同馬から降板させられた問題。以後、田原は同馬を管理した[[伊藤雄二]]厩舎の馬には引退まで一切騎乗せず、「田原と伊藤は犬猿の仲」とも言われた<ref name="tabara6">田原(1998)p.133</ref>。しかし田原によれば伊藤との私的な親交は変わらず続いており、伊藤厩舎の馬に騎乗しなかった理由は「一度自分を張ってぶつかっておきながら、騎乗馬を得るために態度を豹変させるのは、自分を曲げることになると思っていたからだ」と述べている<ref name="tabara6" />。
;[[サンエイサンキュー#サンエイサンキュー事件|サンエイサンキュー事件]]
:1992年の[[エリザベス女王杯]]競走前、田原が自身の騎乗馬[[サンエイサンキュー]]の状態を危惧した発言を曲解され、[[サンケイスポーツ]]と対立した事件。この件に関しては田原の発言よりもサンケイスポーツ側の取材姿勢が非難の対象となり、同社の記者であった[[片山良三]]が[[文藝春秋]]の雑誌「[[Number]]」にて自社批判を行い解雇、これに反発したレース部記者数名が一斉退職するなど、フジサンケイグループ全体を巻き込んだ騒動となった。
:渦中の馬となったサンエイサンキューは同年の有馬記念で骨折、治療が試みられたが最終的に死亡した。田原は「私の発言よりも、調子の落ちている馬に過酷なローテーションを強いたことにスポットを当てて欲しかった」とサンケイスポーツを批判し<ref>田原(1998)p.147</ref>、また一部ライターや評論家に対して「無理なローテーションで走らされてるときは何も言えないで、亡くなったらいきなり、愛するサンキューちゃんだの、ガンバリ屋のサンキューだの、あんたらにそんな事言って欲しくないって、きっとサンキューも言ってるよ」と批判した<ref>田原(1996)p.81</ref>。
;スポーツニッポン記者殴打事件
:田原が調教師免許試験に合格した際に記者会見を拒否し、その顛末を報じた[[スポーツニッポン]]の記事内容に田原が怒り、執筆した橋本全弘を検量室内において鞭で殴打したとされる事件。橋本によれば、[[調教助手]]を通じて田原に検量室へ呼び出された上で、突如鞭で打たれ<ref>『プーサン』第11号 p.11</ref>、直後に「勝手に検量室に入ってこられちゃ困るよな」と言い放たれたという<ref>『プーサン』第11号 p.5</ref>。橋本は顔面打撲、前歯損傷の怪我を負った。
:JRAを介した事後の協議の場で、田原は「鞭を試し振りしていたら当たった」として故意の殴打を否定、検量室に呼び出した事実もないと主張した<ref name="tabara5">『プーサン』第11号 p.15</ref>。橋本からの「偶然だったのであれば、謝罪や安否を確認するよりも先に『勝手に-』との言葉を口にしたのはなぜか」との質問には、「自分が未熟なもので気付かなかった」と答えた<ref name="tabara5" />。協議の結果、田原と橋本は形式的には和解し、故意ではなかったという結論で事態は収束を見るも、田原から橋本への正式な謝罪はなかった<ref>『プーサン』第11号 p.17</ref>。この一件で田原の栗東トレーニングセンター内での心証は極めて悪くなったとされ、調教師達からは「あんな男と一緒にされてはかなわない。もう辞めさせてしまえ」という声が相当数上がったという<ref>『プーサン』第11号 pp.23-24</ref>。[[日本経済新聞|日経新聞]]記者の[[野元賢一]]は、後に発信機装着の問題が取り沙汰された際に、この件を不問に付したJRAの対応が「ボタンの掛け違えだった」との見解を示した<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.co.jp/keiba/column/20010925e04i0003h23.html|title=競走馬の耳に発信機、田原調教師の処分・管理競馬のゆがみ映す|publisher=サラブnet|date=2001-9-25|accessdate=2009-10-25}}</ref>。

== 騎手成績 ==
=== 年度別成績 ===
{| class="wikitable"
!年!!1着!!2着!!3着!!4着以下!!騎乗数!!勝率!![[連対率]]!!備考
|-
||1978年||28||23||15||184||250||.112||.205||関西放送記者クラブ賞(最多勝利新人騎手)
|-
||1979年||63||51||41||289||444||.142||.257||関西1位、全国2位
|-
||1980年||52||41||48||301||442||.118||.210||通算100勝
|-
||1981年||58||50||53||283||444||.131||.243||
|-
||1982年||87||44||57||338||526||.165||.249||関西1位、全国2位
|-
||1983年||104||102||72||405||638||.152||.302||全国1位
|-
||1984年||100||68||71||331||570||.175||.295||全国1位
|-
||1985年||47||30||31||201||309||.152||.249||通算500勝(1月15日)
|-
||1986年||51||38||34||161||284||.180||.313||
|-
||1987年||58||51||42||227||378||.154||.288||
|-
||1988年||60||57||46||315||478||.126||.245||
|-
||1989年||66||58||53||343||520||.127||.238||
|-
||1990年||38||43||48||287||416||.091||.195||
|-
||1991年||33||25||32||272||362||.091||.160||
|-
||1992年||48||41||42||305||436||.110||.204||
|-
||1993年||61||63||51||366||541||.113||.229||
|-
||1994年||62||54||55||393||564||.110||.206||通算1000勝(9月11日)
|-
||1995年||47||52||40||314||453||.104||.219||
|-
||1996年||40||34||22||292||388||.103||.191||
|-
||1997年||8||10||9||123||150||.053||.120||
|-
||1998年||1||1||0||8||10||.100||.200||
|-
||計||1112||936||862||5,738||8,648||.129||.237||
|}

===主な騎乗馬===
括弧内は田原騎乗時の優勝重賞競走。
;GI級競走優勝馬
*[[ダイゼンキング]](1982年阪神3歳ステークスなど重賞2勝)
*[[リードホーユー]](1983年有馬記念)
*[[ダイアナソロン]](1984年桜花賞など重賞2勝)
*[[ハッピープログレス]](1984年[[安田記念]]など重賞4勝)
*[[マックスビューティ]](1987年桜花賞、優駿牝馬など重賞4勝)
*[[コガネタイフウ]](1989年阪神3歳ステークス)
*[[トウカイテイオー]](1993年有馬記念)
*[[ワンダーパヒューム]](1995年桜花賞)
*[[マヤノトップガン]](1995年菊花賞、有馬記念 1996年宝塚記念 1997年天皇賞・春など重賞5勝)
*[[ファイトガリバー]](1996年桜花賞)
*[[フラワーパーク]](1996年[[高松宮記念 (競馬)|高松宮杯]] 1997年[[スプリンターズステークス]]など重賞3勝)
;その他重賞競走優勝馬
*[[リンドプルバン]](1980年[[鳴尾記念]]、高松宮杯)
*[[グレートタイタン]](1980年[[京都記念|京都記念・秋]]、[[阪神大賞典]])
*[[サルノキング]](1982年[[共同通信杯|東京4歳ステークス]]、[[弥生賞]])
*[[カズシゲ]](1982年高松宮杯)
*[[ラブリースター]](1983年[[金鯱賞]]、[[北九州記念]])
*[[ロンググレイス]](1984年[[京都金杯|金杯・西]])
*[[ステートジャガー]](1985年[[大阪杯]])
*[[スダホーク]](1986年[[アメリカジョッキークラブカップ]]、京都記念)
*[[フレッシュボイス]](1986年[[毎日杯]] 1987年[[日経新春杯]])
*[[ニシノライデン]](1987年大阪杯)
*[[コガネパワー]](1991年[[京都4歳特別]]、[[ファルコンステークス|中日スポーツ賞4歳ステークス]])
*[[ニシノフラワー]](1991年[[デイリー杯2歳ステークス|デイリー杯3歳ステークス]])
*[[サンエイサンキュー]](1992年[[札幌記念]]、[[サファイヤステークス]])

== 調教師成績 ==
=== 年度別成績 ===
{| class="wikitable"
!年!!1着!!2着!!3着!!4着以下!!勝率!!連対率!!備考
|-
||1999年||9||6||6||43||.141||.234||(4月10日初出走)
|-
||2000年||18||16||9||79||.145||.274||-
|-
||2001年||8||6||7||77||.082||.143||(10月7日まで)
|-
||計||35||28||22||199||.122||.220||-
|}

===主な管理馬===
*[[フサイチゼノン]]([[弥生賞]])
*[[フサイチユーキャン]]([[サンケイスポーツ賞4歳牝馬特別]]3着)
*ツルミカイウン([[全日本2歳優駿|全日本3歳優駿]]2着。厩舎最後の出走馬)

== 著作 ==
=== 文筆 ===
;エッセイ・評論
*競馬場の風来坊 - 騎手・田原成貴の爆弾エッセイ(マガジンマガジン、1996年)
*馬上の風に吹かれて - 競馬場の風来坊2(マガジンマガジン、1997年)
*いつも土壇場だった覚悟(講談社、1998年)
*田原成貴七三〇〇日のラスト・メッセージ(ブックマン社、1999年)
*黒の軍団チーム田原 旅立ちの章(ブックマン社、1999年)
*黒の軍団チーム田原 - 2000年春 飛翔(ブックマン社、2000年)
*旅の途中(ブックマン社、2001年)
*いかれポンチ(ブックマン社、2002年)
*騎手の心理、勝負の一瞬(ブックマン社、2005年)
*八百長(KKベストセラーズ、2008年)
;漫画原作
*[[競馬狂走伝ありゃ馬こりゃ馬]](作画:[[土田世紀]] ヤングマガジン[[増刊エグザクタ]]→[[週刊ヤングマガジン]]連載)
*勝算(オッズ)(漫画:[[本宮ひろ志]])
*的中 -GET-(作画:[[のだしげる]])
*Jockey(作画:[[大島やすいち]])
*[[法の庭]](作画:[[能田茂]])

=== 音楽 ===
*自由にさせてほしいのさ(B面:ひとりぼっちのセンチメンタル)(1984年)
*The Rocks(1996年)- 全5曲のミニアルバム。10曲収録で、6~10曲目は1~5曲目のカラオケバージョンである。

== テレビ出演 ==
*[[わいわいスポーツ塾]](1988年頃。[[TBSテレビ]]。ゲストでの出演)
*[[サンデースポーツ]](1997年4月27日、[[日本放送協会|NHK]])
*[[情熱大陸]](2000年5月28日、[[毎日放送]])

== 関連項目 ==
*[[西島義則]](従弟。[[競艇]]選手)
*[[幸英明]](弟弟子。ただし谷厩舎で田原と一緒になった時期はない)
*[[中央競馬通算1000勝以上の騎手・調教師一覧]]

== 脚注 ==
{{Reflist|group="注"}}
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
*田原成貴『競馬場の風来坊 - 騎手・田原成貴の爆弾エッセイ』(マガジンマガジン、1996年)
*田原成貴『いつも土壇場だった覚悟』(講談社、1998年)
*杉本清『あなたのそして私の夢が走っています(文庫版)』(双葉社、1997年)
*『プーサン』第11号(大村書店、1998年)
*『Sports Graphic Number PLUS』(文藝春秋、1999年)
*『優駿』1994年3月号(日本中央競馬会、1994年)
*『優駿』1994年4月号(日本中央競馬会、1994年)
*『優駿』2002年2月号(日本中央競馬会、2002年)
*『優駿』2002年3月号(日本中央競馬会、2002年)

== 外部リンク ==
* [http://www.teamtabara.com/ チーム田原オフィシャルウェブサイト]
* [http://www.bigget.jp/ 田原成貴のBigGetマガジン]{{リンク切れ|date=2010年9月}}

{{JRA賞最多勝利騎手}}
{{DEFAULTSORT:たはら せいき}}
[[Category:日本の騎手]]
[[Category:日本中央競馬会の調教師]]
[[Category:栗東トレーニングセンターの人物]]
[[Category:漫画原作者]]
[[Category:日本の作家]]
[[Category:日本の随筆家]]
[[Category:島根県出身の人物]]
[[Category:1959年生]]
[[Category:存命人物]]

2010年10月27日 (水) 23:20時点における版

田原 成貴(たばら せいき、1959年1月15日 - )は覚醒剤取締法違反の犯罪者。