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利用者:鈴木超世志

南朝正統皇位継承論3(串呂哲学研究ノート№191)

南朝正副二統皇位継承論に徹する!

(1)吉野朝の正体は擬朝だった!

(2)『神皇正統記』の擬装を読み解く!

(3)『太平記』の擬装を読み解く!

(4)後醍醐天皇の神霊かく語りき!

(5)小松天皇の神風串呂

「南朝正副二統皇位継承論」に徹し、吉野朝は陽動作戦による南朝の前衛であり擬朝であるとして南北朝時代史を読む解くと、これまでもやもやしていた事項が、霧が晴れた様にスッキリとして参ります。

その一つが北畠親房の『神皇正統記』の解釈です。この著書を北朝・武家方を欺く為に著わした、陽動作戦による「偽書」であり、敵方を如何に騙すかに腐心して書かれた著書であるという視点に徹して読み解くのです!

面白い事に、『ウィキペディア』神皇正統記に下記の様に書かれています。

ところが、実際には、21世紀初頭時点で、親房が本当は何を言いたかったのか、いまだに一致した見解が得られていない[4]。そもそも、誰に向けて、何のために書かれたのかすらも確定していない[5]。『神皇正統記』本文および『神皇正統記』評を読む時は、この点に強く注意する必要がある[4]。[1]

この点に関し私は、神皇正統の天皇を守る為に、義良親王が後醍醐天皇の皇位継承者であるかの如く擬装する為に書かれた「偽書」だと主張します。

下記は『神皇正統記』の一節ですが「全て敵方を騙す為に書かれた」という視点に徹して解釈するのです。

*後に芳野へいらせましまして、御目の前にて天位をつがせ給しかば、いとゞおもひあはせられてたふとく侍るかな。[2]

*内侍所・神璽も芳野におはしませば、いづくか都にあらざるべき。[3]

*まへの夜より親王をば左大臣の亭へうつし奉られて、三種の神器を伝へ申さる。[4]

*御母准三宮、藤原の廉子。この君はらまれさせ給はんとて、日をいだくとなん夢に見申させ給けるとぞ。さればあまたの御子の中にたゞなるまじき御こととぞかねてよりきこえさせ給し。[5]

*秋八月中の五日ゆづりをうけて、天日嗣をつたへおまします。[6]

『太平記』(巻17-8)にも、下記のように皇太子恒良親王が皇位を継承したように擬装されています。

但朕京都へ出なば、義貞却て朝敵の名を得つと覚る間、春宮に天子の位を譲て、同北国へ下し奉べし。天下の事小大となく、義貞が成敗として、朕に不替此君を取立進すべし。(「立儲君被著于義貞事付鬼切被進日吉事」)[7]

皇太子恒良親王が皇位継承者でなかったことは既に考察済みです。

【参照】北陸朝廷3、北陸朝廷の天皇は誰だったのか(№19)

『太平記』巻21-4「先帝崩御事」の後醍醐天皇の御遺勅「第七の宮を天子の位に即け奉りて」[8]や「先帝崩御の刻、遺勅を遺され、第七の宮を御位に即け進せ、朝敵追伐の御本意を遂げらるべし」[9]についても同様です。

擬装ですから、わざと紛らわしい表現にしてあると見るのです。ですから「第七の宮」が誰であるかを争う必要はないという事です。第七の宮は義良親王でよいのです。

延元4年8月15日の後醍醐天皇の綸旨「陸奥親王に御譲国し了ぬ」(五条文書)についても同様です。「陸奥親王は義良親王」でよいのです。陸奥親王が誰であるかを争う必要はないという事です。

  1. ^ 『ウィキペディア』神皇正統記
  2. ^ 神皇正統記
  3. ^ 神皇正統記
  4. ^ 神皇正統記
  5. ^ 神皇正統記
  6. ^ 神皇正統記
  7. ^ 『太平記』(巻17-8)
  8. ^ 『太平記』巻21-4「先帝崩御事」
  9. ^ 『太平記』巻21-4「先帝崩御事」