利用者:SCCKAHAN
SCCKAHAN(えすしーしーかはん)は、過去、日本の放送局で働いていたウィキペディアンであり、自称、日本の技術者である。現職時代、ウィキペディアンENG0000を上司に持ち、その引退以降、Wikipediaにおける執筆・編集活動を引き継いでいる。
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概要
[編集]SCCKAHANは大学を出ている。若干の特許を持ち、学術論文少々、著書もいくつかある。しかしこの事実をあてにすることはできない。なぜならば、SCCKAHANの現職時代の仕事とその結果に「ろくなものがなく」「真実性」に乏しいためである。
SCCKAHANは長年、言論機関に所属していたにもかかわらず、最も肝心な記事を書く力、そして何よりも表現の自由を護るための行動力に乏しく、これが幸いして会社に睨まれることも(ただしこれには異論がある。)評価されることもなく、ヒラ社員のまま、放送局を定年退職している。Wikipediaへの寄稿活動は自らが永年犯し続けた「事なかれ主義」に対する贖罪行為でもある。なお現職時代、最低限仕事に必要な無線従事者などの資格だけは、いくつか取得している。
特にSCCKAHANは東日本大震災関連の無責任な放送内容と、結果生じる風評被害などを見聞するたびに、できることなら自らの過去を全て消し去ってしまいたいほどの衝動に駆られている。特に万死に値する東海テレビ放送の「セシウムさん事件」に号泣。永年にわたり自身秘かに思ってきた「我が人生は失敗」がこれで完全に証明され、せっかく残されたこれからの人生において「人でなし放送人」という重い十字架を背負い、贖罪の日々を送らなければならなくなったためである。しかし具体的に自身やらかしたいくつもの放送事故に苦笑しながら許して下さった被取材者、スポンサーの方々、そしてかけがえのない時間を放送視聴に下さった視聴者にどうやって償えばよいのか。文屋は過ちをやはりペンでしか償うことができないのであるが、SCCKAHANはこの「ペンの力」に乏しい。
SCCKAHANはPC-9800シリーズの修理より、PCと付き合い始めている。MS-DOS2.0以降、OSと格闘しながら、廃棄されたPCを拾い、修理して使用、今日に至る。歴代の個人用PCの修理・再使用数は50機を下らず、新品のメーカー品を使ったことはない。しかし過去、機械語およびFORTRANでのプログラミングに苦労し、職場に泊まり込む日々が続いたためか、アプリケーションソフトウェアに興味はなく、現在、Microsoft Officeを使っている程度である。
活動傾向
[編集]日本は国民の大多数が死ぬまで働かなければならない貧困社会となり、自身も生活のためにさまざまなアルバイトをしていることから、不定期な日時での執筆・編集活動が目立つ。執筆・編集分野は放送・通信関係が主であるが、稀に変わった分野での執筆・編集活動も見受けられる。執筆・編集においては失敗が目立ち、他の秀逸なウィキペディアンより、都度、叱責を受けている。なお難解な表現や専門的すぎる用語は、自身がたちまち理解できなくなることから嫌うようである。
SCCKAHANは、放送で飯を喰っていたにもかかわらず、無責任で言いたい放題、プライドだけ高い放送局やその関係者が大嫌いなようである。SCCKAHANが特に嫌うのは、放送関係の記事で、視聴者記述の放送局に都合の悪い事実記事を関係者がこそこそと削除すること、そして関係者が絶対秘密の取材元やスポンサ情報などを、さも偉そうに記述することである。ただでさえ日本の放送は「利益衡量」の下、何かあったら当局には絶対服従・情報開示しなければならないわけで、SCCKAHANは根本的なジャーナリスト魂のない「腐れ放送人」には吐き気がするようである。よって前者については他のユーザーに放送業界の「闇」を知ってもらいたく放置、後者については見つけ次第、徹底して削除しているようである。
放送人としては、いわゆる「落ちこぼれ」のSCCKAHANであるが、新人時代に叩きこまれた「俺たちは視聴者の命の時間を頂戴して飯を喰わせてもらっている。1秒たりとも視聴者の命の時間を無駄にするな。」だけは肝に銘じているようである[要検証 ]。
日本のWikipediaの現状に対する批判的見解
[編集]SCCKAHANは、日本のWikipediaの現状に対し、批判的である。すなわち「要出典」などに「かこつけて」の個人情報の保護に関する法律抵触などを「誘導する」執筆者の行為などである。大体、百科事典であるWikipediaに個人情報など、不要である。
例えば過去の事件、事件の存在については出典を明記する必要も時として生じるが、加害者の人権は判決確定、受刑となった時点で、保護されなければならないものになる。しかし受刑終了、社会復帰している存命加害者の実名掲載を望む「要出典」があちこちに散見される。何を目的としているのか。
そもそもこんなことは、個人情報の保護に関する法律制定のはるか前より、日本のマスコミでは常識であったが、日本のWikipediaでは全く徹底していない。そもそもWikipediaのルールは日本国法、また国際法に定めらているところから逸脱できるものではなく、特に公開百科事典であるWikipediaはその例より漏れない。このようなことが続くと、日本では権力の介入を許し、いつの間にか逆に何も言えなくなってしまう。
海外のWikipediaではこのようなことはなく、すなわち表現の自由が自主的に厳格に護られている。人権獲得と維持の困難さをおよそ知らない日本大衆にとって、長い表現、学問の自由獲得闘争の末に生まれたWikipediaが理解されるまでには今後、200年程度の時間が必要、その点で日本のWikipediaは従来の日本のマスコミにはおよそ及ばない、日本のWikipediaはもしかすると今後、数年で自滅するかもしれないと考えているようである[要検証 ]。
個人の自己情報統制力に対する批判的見解
[編集]この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
SCCKAHANは、特に2015年頃から日本のTwitterやFacebook、ブログ、インスタグラムなどで顕著になっている「個人の自らによる無用な露出」も「誤った表現の自由」として極めて憂慮している。
昔から日本では個人の「美徳」として「目立たぬように、はしゃがぬように」などと言われるが、これは本当は「自己防衛」のため、すなわち「雉も鳴かずば撃たれまい」である。例えば英語圏には同様に”Quietness is best, as the fox said when he bit the cook's head off.”との諺があるが、無論、決して美徳などとして解釈されてはいない。2017年現在でも日本ではこれをよく知り、使いこなす人は少なく「その一言が己の身を滅ぼす」、結果、各法に「自身を委ねている」実態である。
しかしこれでは法を無効化させてしまい、やがて法に自らを滅ぼさせてしまうことになる。「法が動く」とき、それは原則として「事が起きたとき」であって、法は己の生命、財産を「自動的に奪う」存在とはなっても、己の生命、財産を「自動的に保護」する存在とはならないからである。
本物の情報のプロは「たった一言からでも」、いわゆる裏取りをし、当人が第三者に知られることを想定すらしていない「別の事実」までも証拠を積み重ねて暴き、「大衆の利益」(断じて「公共の利益」ではない)を考え、必要と「己が判断すれば」法の定めるところに従い公開までする。すなわちこのときに法が動くのである。
そして本物の情報のプロは逆に意図的に己の情報を「断片的に出す」ことによって利益を得る。それは「裏を探られない情報には価値がない」ことをよく知っているためであり、己の情報までも「大衆の取捨選択の対象として大衆の判断を仰ぎ」、結果、客観的に得られた要所に火をつけ、油を注ぎ、いわゆる「情報戦」を「第三者に開始させる」のである。
しかしこれは「情報操作」ではなく、世界では日常合理的かつ合法に行われている「平和な情報戦」の「戦略」と「戦術」のひとつであり、情報戦略、戦術なく(それを考えるのが面倒なため)何でもオープンにして宣伝すれば売れると思うのは大間違いである。
つまり、営利目的などで個人情報を公開するときには、例えば情報のプロですらも裏取りに苦労する様、個人レベルから情報戦略を立て、さらに戦術を考えて「実行」しなければならないのであるが、日本ではあまりにも甘く、そこに悪意を持って侵入する者が多く、取り返しのつかない災禍を自ら招いている例が多い。
原始洞窟壁画から今日のTwitterやFacebook、ブログ、インスタグラムに至るまで何も変わらないこと、それは「情報の中身」である。情報媒体は道具であり、全ての道具は使い方によって「凶器」となる、無論、情報の中身も凶器となり、それは自らを襲うものとなる。
根本として「情報の中身」は「木を見て森を見ず」であると「すべて失敗する」が、この諺は日本古来のものではなく、”You cannot see the wood for the trees.”の訳、外来の諺である。すなわち日本人にとっては「まだ新しい概念」であり、不慣れであることを決して忘れてはならない。
つまり「木ばかりを見る」、言いたい放題、一言一句について延々と論争する、批判合戦では何の解決にもならないどころか、それを冷徹に「知らぬ顔をして客観視」し、己の私利私欲のために利用する者がいることを決して忘れてはならない。なぜならば「森を見ない論争」のあるところには必ず「カネのなる森」があり、他人の論争は、最も面倒な「森の調査」=「市場調査、市場開拓」を省くからである。
ここであえて「木ばかりを見る」で論じてみよう。
2017年、ついに日本国は一部で「世界一の先見の明を有する」と評されるに到った[1]。しかし世界一の先見の明には当然、世界一多くの論争を伴う。つまりその論争を早期に決着させ、具体化させるだけの「世界一の学力」を伴わなければならないが、そちらは大変な後進国であり、労働生産性が低く、例えば潜在的国力の指標となる日本の15歳の学力は、難しい試験のため、長時間勉強しなければならない(各試験の平均難易度は世界上位第4位と難しい。)にもかかわらず、既に数学、科学の分野でも韓国に抜かれ、長年に渡って不動、総合1位のフィンランドには遠く及ばない[2]。結果「生活の豊かさ」では世界総合29位[3]、しかしこれには異論があり一部では世界総合7位[4]、さらには20位[5]とする結果もある。
最も高評価の「数値」をもってG7の最下位は護っていると言えるかも知れないが、先進国中、これほどに評価の分かれている国は珍しく、このランキングは結局、「不明確で役に立たない。」というのが「結論」になる。つまり「不毛な議論」である。
しかし、特に日本の将来を担う日本の15歳の「生活満足度」は、世界47か国・地域で下から6番目に低い[6]ことははっきりしており、このような「不毛な議論」に大人が時を費やすとはいかなることか、自分自身の問題として、各自真剣に考えなければならない段階にある。
「木」どころか「枝葉」の「不毛な議論」に「着目」、「都合の良いところばかりを選び、利用する」のが公権力であり、その被害者は必ず庶民、社会的弱者になることにも要注意である。
「表現の自主規制」は表現者個人から、他者のみならず自らの利益も損じないように正しくなされなければならない。
他言語での活動
[編集]英語をはじめとする外国語を得意としないため、日本語版以外での活動はできないようである。
脚注
[編集]参考文献
[編集]何ら存在しない。