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「阿弥陀寺 (和歌山県那智勝浦町)」の版間の差分

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2007年1月28日 (日) 07:13時点における版

阿弥陀寺
ファイル:AMIDADERA-temple sanctuary (Nachi-Katsuura, Wakayama).JPG
本堂
所在地 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町南平野2270-1
位置 北緯33度39分20.68秒 東経135度53分12.92秒 / 北緯33.6557444度 東経135.8869222度 / 33.6557444; 135.8869222
山号 妙法山
宗派 真言宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 伝・大宝3年(703年
開基 伝・蓮寂上人
札所等 西国三十三箇所番外霊場
法人番号 7170005005475 ウィキデータを編集
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阿弥陀寺(あみだじ)は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある高野山真言宗の寺院。山号は妙法山。本尊は阿弥陀如来那智山の一角をなす妙法山の中腹にある。寺名よりもむしろ山号であり所在地である妙法山の名によって知られる。

概要

起源と歴史

和歌山藩の編纂した地誌『紀伊続風土記』の記述によれば、阿弥陀寺は空海の開基であると伝えられる。『紀伊続風土記』はその典拠として寛文年間の文書を参照し、貴賎男女を択ばず納骨を受け入れた諸仏救世の道場であったこと、女人高野と号されたことを伝えている。しかし、この空海開基説は、こうした「貴賎男女を択ば」ないことが女人高野の連想を生み、そこから後世に付会されたものとするのが通説である。

歴史的な開基は、古くからの自然信仰の地として知られる熊野一帯を訪れた法華持経者と推定されているが、詳細は明らかではない。この説を補強するものとして、『日本霊異記』に所収の奇談がある。8世紀頃のものとされるこの奇談は、そうした法華持経者のひとりが、妙法山と推定される山中で捨身行にのぞみ、骸骨のみの姿になっても、その舌のみは依然として生前と同様に読経を続けていたと伝えており、妙法山が、熊野那智大社に先行する山篭行の聖地であったことが判明する。

史料上、その存立が確かに確認できるのは鎌倉時代からである。臨済宗の僧・覚心が廃寺であったものを再興し、しばらく居住したという(『元亨釈書』)。以来、阿弥陀寺はながくにわたって禅宗寺院であったが、明治初期に真言宗寺院に転じ、現在に至っている。1981年昭和56年)、火災により本堂以下の堂舎が消失し、それとともに文化財群も失われた。現存する堂舎はそれ以後に再建されたものである。

熊野の民俗・信仰と妙法山

那智山の一角に在する阿弥陀寺は、熊野の民俗や信仰とも深い関わりを持っている。

近世初期までの阿弥陀寺は、那智山一帯の寺社のための勧進を統括した熊野山伏・熊野比丘尼の拠点、那智七本願のひとつであった(『青岸渡寺文書』)。全国を行脚し、熊野信仰の世界観を説き、熊野への巡礼を勧めてまわった彼らは、熊野信仰の絵解図「観心十界絵図」を携えていたが、一説には妙法山をモデルにしたものともいう。

妙法山はまた、熊野における特異な葬送民俗伝承との関係が深い。熊野では、死者の枕元に供える3合の枕飯が炊き上がるまでの間、死者の霊魂は、枕元に手向けられた樒(しきみ)の葉を手にして妙法山に参詣し、鐘をつくと伝えられている(『紀伊続風土記』)。このような伝承から、妙法山は樒山(しきみやま)とも呼ばれる。また、人の姿が無くとも鳴ることから、阿弥陀寺の鐘楼は「亡者の一つ鐘」とも呼ばれている。

こうした民俗伝承は、覚心による再興後の阿弥陀寺が山岳霊場となり、念仏と分骨・分髪の寺院となったことと関係しているが、その背景をなすのは、自然信仰の古い層、すなわち山中に他界を見る信仰の形態である。なお、分骨・分髪や死者供養の習俗は今も続けられており、毎年4月には御影供が行われている。

阿弥陀寺御詠歌

阿弥陀寺には本尊(阿弥陀如来)の御詠歌が伝えられており、本堂正面にその額が掲げられている。

くまの路をもの憂き旅とおもふなよ 死出の山路でおもひ知らせん
(大意:熊野への旅路を気乗りのしない旅路だなどと思ってはいけない。死へと旅立つ山路で、阿弥陀如来があなたに熊野参詣のありがたさを教えてあげよう)

熊野が巡礼地として確立する中世において、熊野は阿弥陀如来の顕現する地、すなわち来世・浄土と考えられており、そこへの巡礼は象徴的な意味での死と再生であった。中世熊野信仰における熊野観を伝える一篇であると言えよう。

境内

  • 本堂
  • 鐘楼
上述の「亡者の一つ鐘」の鐘楼。鎌倉時代の『元亨釈書』に初出し、現世安穏と先祖菩提のために、生前に一度は撞いておくべきことが勧められている。現存する鐘は、1678年(延宝6年)の鋳造と伝えられる。
  • 火生三昧(かしょうざんまい)跡
平安時代の法華持経者、応照が火生三昧(焼身による捨身行)をおこなった遺構と伝えられる。応照は、すべての衆生の罪をわが身に負って、その罪ごと身体を焼尽することを志し、食を断って心身を浄化した末、薪の上に座し、紙の衣をまとって自ら薪に火を放った。身体が燃え尽きるまで晴朗な読経の声がやむことは無かったと伝えられる。
  • 浄土堂(奥の院)
妙法山の中腹にある本堂に対し、頂上にあることから奥の院とも呼ばれる。唐からやってきた天台山の僧侶、蓮寂が、妙法蓮華経を埋経したことがその名の由来であると伝えられる。

行事

ギャラリ

交通機関

周辺情報

参考文献

  • 五来重、1991、『山の宗教:修験道講義』(角川選書223)、角川書店 ISBN 4047032239
  • 豊島修、1992、『死の国・熊野:日本人の聖地信仰』(講談社現代新書1103)、講談社 ISBN 4061491032
  • 平凡社編、1997、『寺院神社大事典:2 大和・紀伊』、平凡社 ISBN 4582134025

外部リンク