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植松与右衛門(歌川広重「「東海道五十三對」『原』)

植松家(うえまつけ)は、江戸時代から続く静岡県沼津市名士。武田氏の家臣であった初代出雲季重が、東海道原宿に移住したところから始まる。2代・3代は百姓名の理兵衛、4代以降は與右衛門を名乗っている[1] [2]。 4代逵季が白隠慧鶴の後継者となり、6代季英(蘭溪)が帯笑園を整えたことで知られている[3] [4]。 7代季興は京の円山応挙に弟子入りし、応令の号を授かった。家督相続のため原に戻ることになった季興に、応挙が「双鶴図」を贈っている。応令の作品として「西王母図」ほかが伝わっている[5] 。 8代季敬は、漢詩を頼山陽、画を岸駒、書を巻菱湖に学んだとされ、書扇面が伝わっている[6]

系譜[編集]

参考文献[編集]

  • 高橋敏『地方文人の世界』、2011年 ISBN9784886215765

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 植松家と文人墨客 佐野美術館1995
  2. ^ 地方文人の世界 高橋敏 2011
  3. ^ 植松家と文人墨客 佐野美術館1995
  4. ^ 地方文人の世界 高橋敏 2011
  5. ^ 植松家と文人墨客 佐野美術館1995
  6. ^ 書にみる沼津の人物 沼津市明治史料館1998

概要[編集]

ジェンダー ジェンダーは多義的な概念であり、性別に関する社会的規範と性差を指す[1]。 性差とは、個人を性別カテゴリによって分類し、統計的に集団として見た結果、集団間に認知された差異をいう[2][3]。 ジェンダーの定義と用法は年代によって変化する[4][5]。ジェンダーという概念は、性別に関して抑圧的な社会的事実を明らかにするとともに、ジェンダーをめぐる社会的相互作用をその概念自身を用いて分析するものである[6][7]

  1. 1960~1970年代 ジェンダーを基本的に個々人のものとして、性別に関する「さまざまな行動、感情、思考、幻想」を指すもの[8]、また、社会的世界における男女の経験や位置づけの差として社会的事実を理解するためのもの[9]という見方があった。ジェンダーとは「性差に関する知」「性差の社会的組織化」「肉体的差異に意味を付与する知」である[10]ともいう。
  2. 1980~1990年代 生物的な性差やセックス/ジェンダーの二分法といった前提観念は、ジェンダーが男性優位の権力関係であるという認識が欠けており、男性による女性の抑圧を支える物質的な基盤の分析に踏み込めないと批判された[11]。また、セックスは一定の支配的言説のもとでふるまうパフォーマティブな効果であり、その意味でジェンダーは文化的構築物とする見方もあった[12]
  3. 2000年代 セックスと区別されたジェンダーを可塑的なものとすることは、セックスを生物学的事実として固定することになるという批判が出ている[13]


 



明石海人歌碑①
明石海人歌碑②
明石海人歌碑③

明石海人(あかし かいじん、1901年(明治34年)7月5日-1939年(昭和14年)6月9日)は、 静岡県駿東郡片浜村出身の歌人である。本名は野田勝太郎[14] 。 25歳でハンセン氏病に罹患、37歳『新萬葉集』に入選した11首の歌が注目を浴びる[15]1939年(昭和14年)2月、ハンセン病者の存在を世間に知らせたいという意志により、歌集『白描』を刊行[16]。 同年5月腸結核に罹り、6月に永眠した。 歌集『白描』は、刊行後2年で2万5千部のベストセラーとなっている[17]


『新萬葉集』[編集]

応募総数40万首といわれるなかから11首入選。注目を浴びる。

そのかみの非田施薬のおん后 いまを座すがにをろがみ奉る

みめぐみは言はまくかしこ日の本の 癩者に生れて我悔ゆるなし

これらの歌について、明石海人は筆記者に次のように語ったという。

「あれは儀礼の歌だ。

誰もかえりみぬ癩患者に、皇太后さまが鶴のひと声を掛けて下さった。

そのことへの患者一般の平均的感情を代弁しただけだ。

らい病になったことを誰が喜ぶものか。

あれは作品の純粋度の点では、問題にならぬ作だ [18]

「日本歌人」[編集]

明石海人の歌は、主に歌誌『日本歌人』に発表された。


このごろを便り遠のく妻のこと 梨の芽立ちに想ひてゐたり

隕石(ほし)群れながるる白日(ひる)のしづけさに雷針の金高くまどろむ


歌誌『日本歌人』における明石海人作品の初出は、1935(昭和10)年6月第二巻第六号 であり、上記2首ほか7首が掲載されている。

歌誌『日本歌人』の刊行者前川佐美雄は、当初、明石海人の身上を知らなかった。

前川が明石の身上を知ったきっかけは、『日本歌人』の発売禁止処分である。 『日本歌人』九月号には、ニ・ニ六事件に関する歌が掲載されていた。 その歌の作者が、明石海人であった。


叛乱罪死刑宣告十五名日出づる国の今朝のニュースだ

死をもって行ふものを易々と功利の輩があげつらひする


明石君が癩者であるといふことを知つたのは、昭和十一年の九月であつた。 それは「日本歌人」の九月号が例の二・二六事件に関する歌があつたといふので 発売禁止の処分を受けたが、この時明石君の歌がその有力な材料の一つであつた。 明石とは何者かと当局から訊ねられても僕は応へる術さえなかつた。 が、かういういきさつがあって初めて作者の身柄が 本人から正しく僕に打ち明けられたのである。 (略) 何故今まで癩者たる身分を僕に知らせなかつたかといふことについては、 作者はその機会がなかつたことを詫びてゐる。 (略) 癩者ということが知られてしまふと、善かれ悪しかれ一種のハンディキャップのつけられるのが 好ましくないからだと書かれてあつた [19]

「詩歌について」[編集]

堀辰雄、小林秀雄、三好達治

『白描』[編集]

本名、経歴公表までの経緯[編集]

明石海人の本名や正確な経歴は、根強いハンセン氏病に対する偏見が原因で、長い間、公表されることはなかった[20]。明石海人が亡くなった1939年(昭和14年)に刊行された「宿命の歌人明石海人の一生」では、1901年(明治34年)に湘南に生まれたと紹介している[21]。そして1941年(昭和16年)に刊行された明石海人全集の年表では、1902年(明治35年)に浜松市の生まれと、生年も生まれた場所も事実とは異なる記述となっている[22]

明石海人全集の年譜で出身地を浜松市とした著者の内田は、1956年(昭和31年)刊行の「日の本の癩者に生まれて」上で、ハンセン氏病の患者たちが自らの名を捨て、故郷を明らかにせず、家族との音信を断っている状況に触れながら、浜松市出身というのはあえて嘘を書いたと浜松出身説を否定している[23]

明石海人の名前や出身地が明らかにされ始めたのは、山口女子短期大学の教授、太田静一が1975年(昭和50年)、文芸山口第93号に「明石海人再説」を発表して以降である。太田は内田守人が執筆した明石海人全集の年譜はずさんな内容であるとした上で、その原因はハンセン氏病に対する偏見が根強い中で、遺族への配慮から事実と異なる年譜となった可能性が高いと指摘した。しかし太田は論文中で明石海人の生年月日については明治34年7月5日と正確なものを紹介したが、出身地については静岡県N市S町、本名はN.勝太郎と、ともに伏字での紹介に留まった。やはり強い偏見に配慮して、本名、出身地の公表は避けたのである[24][25]

出身地が沼津であることは、1976年(昭和51年)、光岡良二が多磨全生園の機関紙「多磨」に連載した「幻の明石海人」において初めて公表された[26][25]。光岡はまた、明石海人が兵庫県の明石楽生病院に入院時、女性患者と深い仲となり、一緒に退院して同棲生活を開始したことなどを、内田守人が意図的に隠ぺいした疑いについても述べている{[sfn|光岡|1976_4|page=32}}[25]

しかし内田守人は太田や光岡の指摘や疑問に向き合うことはなかった。1978年(昭和53年)に刊行された明石海人全歌集において、編者の内田は明石海人の年譜について、出身地は浜松市、生年も明治35年と、1941年(昭和16年)の年譜の記述を踏襲した。内容的にも大きな変化を加えてはいない[27][25]

明石海人の本名が初めて公表されたのは、1980年(昭和55年)に刊行された、明石海人の旧友である松村好之著、「慟哭の歌人 明石海人とその周辺」上のことであった。慟哭の歌人の明石海人年譜において、静岡県沼津市出身で本名は野田勝太郎と明記されたが、生年のみは明治35年(1902年)とされた[28][25]

三重大学の教授、栗原輝雄は、1987年(昭和62年)に明石海人の研究書「生くる日の限り 明石海人の人と生涯」を出版した。同書の年譜は栗原の調査研究に基づき、明石海人の生涯についてかなり整理されたものになった。しかし栗原は調査研究時に直面した、ハンセン氏病に対して残り続ける根強い偏見に考慮し、生年月日のみは正確な日付となったものの、本名、出身地、出身校については伏せられた[29][25]

明石海人の生年月日、本名、出身地、出身校が全て公表されたのは、1988年(昭和63年)のことであった。同年、静岡県の女性史研究家、市原正恵が、「季刊静岡の文化第15号」上に「沼津生まれの歌人明石海人」を発表し、その中で生年月日、本名、出身地、出身校を明らかにした[30][31]。この市原による公表は発表雑誌の性質上、研究者ばかりではなく多くの人々に明石海人の真の経歴が知られることになり、とりわけ故郷である沼津では、明石海人の顕彰活動が始まるきっかけとなった[31]


明石海人の顕彰[編集]

1988年(昭和63年)に明石海人の生年月日、本名、出身地、出身校が全て公表された後、故郷の沼津では明石海人の顕彰活動が始まった。まず1991年(平成3年)には「明石海人を偲ぶ会」が結成された。偲ぶ会は「明石海人文学展」の企画を進めることになり、翌1992年(平成4年)、沼津市の牧水記念館で明石海人死後初めてとなる明石海人文学展が開催された[32]

明石海人文学展は、亡くなった長島愛生園から多くの資料を借り受け、遺族から文学展開催の了解を取り付け、遺族が所蔵していた自画像を借り受けた。また文学展の関係者はハンセン氏病に対する偏見、差別に対する対応にも追われながらの開催であった[33]

明石海人の母校である沼津商業高校は、2000年(平成12年)に創立100周年を迎え、しかも翌2001年(平成13年)は明石海人生誕100周年であった。そこで1998年(平成10年)、沼津商業高校の同窓会では、創立百周年記念事業として明石海人の顕彰と歌碑建立事業を行うことが決定された[34]

歌碑の建立は遺族からの了解を取り付けた後に、海人が亡くなった長島愛生園の地から石材の提供を受け、千本浜公園に3基、沼津商業高校の校庭に1基の計4基の歌碑を建てることになった[35]

2001年(平成13年)7月1日から5日にかけて、沼津市民文化センターにて明石海人生誕百年記念文学展が開催され、生誕100年目に当たる2001年(平成13年)7月5日、沼津商業高校と千本浜公園では明石海人歌碑の除幕式が行われた。沼津商業高校の除幕式には長島愛生園の入所者、沼津商業高校同窓会、生徒代表らが参加した。千本浜公園での式典では明石海人の遺族を始め、長島愛生園、国立駿河療養所の入所者、石川嘉延静岡県知事、斎藤衛沼津市長らが参加し、式典では小泉純一郎内閣総理大臣、坂口力厚生労働大臣からの祝辞が代読された。小泉内閣総理大臣の祝辞は、政府はハンセン氏病の隔離政策を反省し、出来る限りの支援を行っていくので、明石海人の霊に安心して欲しいと呼びかける内容のものであった。同年5月、熊本地裁においてハンセン氏病訴訟で国側敗訴の判決が下り、小泉内閣総理大臣は控訴断念の決定をしていた[36]

除幕式の後、沼津市民文化センターでは明石海人生誕百年記念式典が行われた。式典では歌人明石海人、そしてハンセン氏病についての講演が行われた[37]

出典[編集]

  1. ^ 『現代社会学事典』大澤真幸[ほか]/2012/弘文堂/P499
  2. ^ 『現代社会学事典』大澤真幸[ほか]/2012/弘文堂/P500
  3. ^ 『社会学事典』日本社会学会社会学事典刊行委員会/丸善/2010/P409
  4. ^ 『現代社会学事典』大澤真幸[ほか]/2012/弘文堂
  5. ^ 『社会学事典』日本社会学会社会学事典刊行委員会/丸善/2010
  6. ^ 『現代社会学事典』大澤真幸[ほか]/2012/弘文堂
  7. ^ 『社会学事典』日本社会学会社会学事典刊行委員会/丸善/2010
  8. ^ 『性と性別-男らしさと女らしさの発達について』ストラー/桑畑勇吉[訳]/1999/青土社
  9. ^ 『セックス・ジェンダー・社会』オークレー
  10. ^ 『ジェンダーと歴史学』スコット/1992/平凡社
  11. ^ 『なにが女性の主要な敵なのか-ラディカル・唯物論的分析』デルフィ/井上たか子[訳]/1996/勁草書房
  12. ^ 『ジェンダー・トラブル―フェミニズムと会いディンティティの攪乱』バトラー/青土社/1999
  13. ^ Rubin,Duke University Press,2011
  14. ^ 近代沼津人物列伝|沼津市明治史料館|2013, p. 20.
  15. ^ 幾世の底より 評伝・明石海人 & 荒波力 2016.
  16. ^ 海人全集別巻 1993.
  17. ^ 荒波力 2016.
  18. ^ 海人全集別巻 1993, p. 420.
  19. ^ 海人全集別巻 1993, p. 180.
  20. ^ 沼商百年史 2000, p. 1023.
  21. ^ 虫明 1939, p. 12.
  22. ^ 内田 1941, p. 397.
  23. ^ 内田 1941, p. 11.
  24. ^ 太田( 975, p. 46.
  25. ^ a b c d e f 沼商百年史 2000, p. 1024.
  26. ^ 光岡 & 1976_4, p. 32.
  27. ^ 内田 1978, p. 225~228.
  28. ^ 松村 1980, p. 211.
  29. ^ 栗原 1987, p. 244~252.
  30. ^ 市原 1988, p. 52.
  31. ^ a b 沼商百年史 2000, p. 1025.
  32. ^ 沼商百年史 2000, p. 1026~1027.
  33. ^ 沼商百年史 2000, p. 1009.
  34. ^ 県立沼津商業高等学校同窓会 2002, p. 12.
  35. ^ 県立沼津商業高等学校同窓会 2002, p. 13~15.
  36. ^ 県立沼津商業高等学校同窓会 2002, p. 15~16 page=22.
  37. ^ 県立沼津商業高等学校同窓会 2002, p. 16.

参考文献[編集]

  • 市原正恵 編『『季刊静岡の文化第15号』「沼津生まれの歌人明石海人」』静岡県文化財団、1988年。 
  • 太田静一 編『『文芸山口93』「明石海人再説」』山口県文芸懇話会、1975年。 
  • 内田守人/監修 編『明石海人全集 下巻 「明石海人年譜」』改造社、1941年。 
  • 内田守人 編『日の本の癩者に生まれて』第二書房、1956年。 
  • 内田守人 編『明石海人全歌集』短歌新聞社、1978年。 
  • 沼商百年史編集委員会 編『沼商百年史』2000年。 
  • 栗原輝雄 編『生くる日の限り 明石海人の人と生涯』皓星社、1987年。 
  • 県立沼津商業高等学校同窓会 編『明石海人顕彰と歌碑建立報告』県立沼津商業高等学校同窓会、2002年。 
  • 松村好之 編『慟哭の歌人 明石海人とその周辺』小峯書店、1980年。 
  • 光岡良二 編『『多摩57』幻の明石海人2』1976_4。 
  • 光岡良二 編『『多摩57』幻の明石海人8』1976_11。 
  • 虫明邦夫 編『『瀬戸の曙』宿命の歌人明石海人の一生』婦女界社、1939年。 
  • 沼津市明治史料館 編『近代沼津人物列伝』沼津市教育委員会、2013年。 
  • 『海人全集別巻』皓星社、1993年。 
  • 荒波力 編『幾世の底より 評伝・明石海人』白水社、2016年。 


年表[編集]

明石海人(野田勝太郎)年表[1]
出来事 年齢
(歳)
1901年(明治34年) 7月5日生まれ。静岡県駿東郡片浜村西間門96番地(現・沼津市西間門96ー1〜6番地 ) 0
1907年(明治40年) 片浜村立片浜尋常小学校(現・沼津市立片浜小学校)入学 6
1913年(大正2年) 3月25日片浜尋常小学校卒業 12
1913年(大正2年) 4月沼津町立沼津商業学校(現・静岡県立沼津商業高等学校)予科に入学 12
1914年(大正3年) 3月25日予科第一学年修了 13
1915年(大正4年) 3月24日予科第二学年修了 14
1915年(大正4年) 4月沼津町立沼津商業学校本科一学年 14
1916年(大正5年) 3月24日本科第一学年修了 15
1917年(大正6年) 3月24日予科第二学年修了 16
1918年(大正7年) 3月20日予科第三学年修了・同校卒業 17
1918年(大正7年) 4月静岡師範学校本科第二部入学(現・静岡大学教育学部) 17
1920年(大正9年) 3月25日静岡師範学校本科第二部卒業。小学校本科正教員免許状を下付される。 19
1920年(大正9年) 3月31日静岡県駿東郡原尋常高等小学校(現・沼津市立原小学校)に訓導として勤務 19
1923年(大正12年) 6月30日富士郡須津尋常高等小学校(現・富士市立須津小学校)に転勤。教師古郡浅子を知る。同僚であり先輩の清水慎一から、短歌指導を受ける。 22
1924年(大正13年) 7月ごろ古郡浅子と結婚 23
1925年(大正14年) 2月4日長女・瑞穂誕生 24
1925年(大正14年) 8月31日富士郡第一富士根尋常高等小学校(現・富士宮市立富士根南小学校)に転勤 24
1926年(大正15年=昭和元年) 3月末(または4月初め)、東京帝国大学医学部附属病院でハンセン病の診断を受ける。
4月30日、富士根尋常高等小学校退職を命ぜられる。
年末、次女・和子誕生。
25
  1. ^ 荒波力 2016.