垣内惟聡
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垣内 惟聡 | |
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生誕 |
文化元年(1804年) 紀伊国有田郡栖原村 |
死没 |
安政5年12月16日(1859年1月19日) 紀伊国有田郡栖原村賽神山麓 |
墓地 | 施無畏寺 |
別名 | 通称:松三郎・太郎兵衛・太郎八、号:梅渓、諡号:烱遠[1] |
時代 | 江戸時代 |
肩書き | 栖原垣内家本家第11代 |
前任者 | 垣内玄蔵 |
後任者 | 菊池晩香 |
親 | 垣内淡斎・孝 |
親戚 | 兄:垣内玄蔵・菊池海荘、姉:鶴 |
垣内 惟聡(かきうち ?)は幕末紀州の豪商。栖原垣内家本家第11代を継いだが、豪遊して家業を傾けた。
生涯
[編集]文化元年(1804年)栖原垣内家新家垣内淡斎(孝友)の三男として生まれた[2]。父が大坂安治川に出店した河内屋松三郎店を任され、醤油を販売した[1]。父は死ぬ間際、店を義兄垣内白沙に譲ったが、気に病まず高砂を謡ったという[1]。
兄垣内玄蔵の養子となり、本家を継ぐと、大坂東堀に豪邸を構えて豪遊し、江戸本店番頭松田佐七に4度諌められるも、聞き入れなかった[1]。天保の改革で倹約令が出され、物価の低迷により経営が悪化すると、東堀の豪邸は手放したが、浪費癖を完全には直さなかった[1]。
ある晩浜辺で漁の様子を見て漁業進出を思い付き、大船を建造して巨大な網を作り、人を集めて大規模な操業を行ったが、収支が合わず、半年で巨額の損失を出した[1]。親族に非難されるも、「あなた方は幸運だ。小成に安んじている。私の志など分からないだろう。」と一笑に付した[1]。
しばらくして奇病に罹り、歩行困難となった[1]。江戸近海で不漁が続き、商売も振わず、深川本店の財政が悪化し、番頭左七は子の弥吉に跡を譲った[1]。度々倹約を促され、遂に栖原賽神山麓に小屋を構えて隠居し、代々の遺稿を整理し、家業の変遷を記し、時折大声で謡曲を謡った[1]。安政5年12月16日(1859年1月19日)病没し、烱遠と諡号され、兄海荘第2孫菊池晩香が跡を継いだ[1]。安政6年(1859年)10月施無畏寺に墓石が建立された[3]。
家族
[編集]天文21年(1552年)垣内武行が興した栖原垣内家の一族[4]。
- 父:垣内淡斎(孝友) - 本家第9代垣内忠質(茗渓)弟[5]。
- 母:孝 – 有田郡滝川原村旧家、宮原次兵衛娘[6]。安永4年(1775年)生。剃髪して孝寿と号した。安政2年(1855年)11月6日死去し、施無畏寺に葬られた[7]。
- 兄:垣内玄蔵(広敬)
- 姉:鶴 - 垣内白沙(八郎兵衛、貞)妻[4]。
- 兄:菊池海荘(保定)
妻子はなかった[3]。