日根野弥吉
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日根野 弥吉(ひねの やきち、? - 永禄12年1月23日〈1569年2月8日〉)は、戦国時代の武将。日根野弘就や弥次右衛門(盛就[1])の弟(『改正三河後風土記』)とも[2]、弘就の甥(『徳川実紀』)ともいわれる[3]。
生涯
[編集]永禄10年(1567年)8月に斎藤龍興が稲葉山城から没落した後(稲葉山城の戦い)、美濃斎藤氏に仕えていた日根野弘就・盛就兄弟は駿河の今川氏に仕えた[1]。永禄11年(1568年)12月27日、徳川家康が今川氏真の籠もる[4]掛川城を攻めているが、その際、弘就に従う日根野源太と鈴木次右衛門が討死している[5]。
永禄12年(1569年)1月16日、徳川家康が再び掛川城を攻める[6]。同月18日、弥吉は弘就や盛弘と共に掛川城から打って出て、徳川方の金丸山砦を攻撃した[7]。この戦いで弥吉ら今川方は金丸山を守る[8]久野宗能の軍を切り崩し、盛り返そうとした岡崎衆も打ち破った[7]。
1月22日の夜、家康の陣を襲うため掛川城から出た今川軍を、徳川軍が伏兵で迎え撃った[9]。この戦いは翌朝まで続き、徳川方からは山家三方を先鋒とする援軍が駆け付けた[9]。『改正三河後風土記』によると、日根野弘就・弥次右衛門・弥吉は勇を励まして命を惜しまず奮戦し、徳川方の林藤左衛門や加藤孫次郎(孫平次)、松下新助らが討死したという[10][注釈 1]。また、松井忠次の家人である岡田竹右衛門元次・石川新兵衛・都築助太夫・左右田与兵らが日根野兄弟と槍を合わせたとされる[10]。
この戦いで、弥吉は討死した[9]。弥吉を討ったのは、水野太郎作清久(正重)とも[11][12]、大久保忠世ともいう[13]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年、383–386頁。ISBN 978-4-642-01457-1。「日禰野弘就」「日禰野盛弘」の項。
- ^ 桑田 & 宇田川 1976, pp. 339, 342.
- ^ 内藤耻叟 校訂標記「徳川実記巻十二附録」『徳川実記 三』徳川実紀出版事務所、1899年、23頁。全国書誌番号:40013603 。
- ^ 柴田 1934, pp. 495–496.
- ^ 柴田 1934, pp. 509–510.
- ^ 柴田 1934, p. 512.
- ^ a b c 柴田 1934, p. 513.
- ^ 柴田 1934, p. 510.
- ^ a b c 柴田 1934, p. 515.
- ^ a b 桑田 & 宇田川 1976, p. 342.
- ^ 柴田 1934, p. 515; 桑田 & 宇田川 1976, p. 343.
- ^ 堀田正敦ほか 編『寛政重脩諸家譜 第二輯』國民圖書、1923年、891頁。全国書誌番号:21329092 。
- ^ 東京帝国大学文学部史料編纂掛 編『大日本史料 第十編之一』東京帝国大学、1928年、823頁。全国書誌番号:73016138。