コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ノート:真宗大谷派」の版間の差分

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。
削除された内容 追加された内容
開真 (会話 | 投稿記録)
ヌーフ (会話 | 投稿記録)
34行目: 34行目:
今話題の社保庁問題で、批判を受けてる当事者の社保庁長官や関係者がその問題に対して「信頼性のある」発言ができるとお思いですか?「中立的観点」から意見が言えるとお思いですか?それと同じことですよ。--[[利用者:ゴリアテ|ゴリアテ]] 2007年6月28日 (木) 01 :38 (UTC)
今話題の社保庁問題で、批判を受けてる当事者の社保庁長官や関係者がその問題に対して「信頼性のある」発言ができるとお思いですか?「中立的観点」から意見が言えるとお思いですか?それと同じことですよ。--[[利用者:ゴリアテ|ゴリアテ]] 2007年6月28日 (木) 01 :38 (UTC)


先に意見を投稿させて頂きましたヌーフです。浄土真宗本願寺派のページでは、MKTさんとも少々の意見交換させて頂きました。ゴリアテさんのように「真宗大谷派の現況を全て知りたいので、活動から批判から評価の声やら書いて頂くとありがたい」という方もいて、この百科事典を閲覧する方もおられると思うので、「事実としてある具体的活動内容、事実としてある客観的肯定意見、事実としてある批判的意見、中立公平性を保てるなら書くべき」と思ってました。今でも思ってます。しかしながら、中立公平性を保った記述なんてできるんでしょうか?宗門に対して何等興味のない人が調べて書けば、第三者から見た中立的視点になるとは思うんですが、そんな興味のない人が、わざわざ調べてまで書くとは思えませんし、それ以前に宗門の紹介項目を開くとも思えません。つまり、記述する方は、宗門に対して何等かの興味をお持ちの方に限られると思うんです。何等かの興味をお持ちなら、宗門の活動に対して、賛成だったり、批判的になったり、必ずご意見があると思います。どちらかの考えが底流にあれば、記述は自然と肯定的になったり、批判的になったりします。そうなれば中立公平性なんて保てるわけがありません。結局のところ、何が一番中立的かといえば、「どういう活動をしているかだけを淡々と記述する」ではないでしょうか?宗門執行部の見解も、肯定的・否定的意見さえも書かない(宗門執行部の見解だけを書いた場合、肯定的意見だけを採用したことと同じことになり、批判的意見の切り捨てと思われ、何も書かなかったとき以上に批判的投稿を加筆される恐れあり)ことなのではないでしょうか?それでも納得しない人は必ずいるでしょうが。結局のところは難しい問題です。編集合戦は、止みそうにないような気がします。さてMKTさん、上記のゴリアテさんのおっしゃる通り、この百科事典に記述する際には関係ありませんが、批判は真摯に受け止めなければなりません。他人の意見は聞かない、自分の考えが正しいでは、議論や話し合いになりません。単なる子供の喧嘩です。私が誤解しているだけかもしれませんが、貴殿は誤解される書き方をなさっておいでです。また、当事者の記述は信頼性に影響する云々とのことですが、信頼性にも、中立性にも疑問は残ります(ゴリアテさんは、なかなか面白い喩えをしておいでです。その喩えが適切がどうかは知りませんけど)。「あまり深く考えてもつまらないこと」というより、「あまり深く考えなくても分かること」という方が適切です。ですが、当事者=宗門関係者として捉えても、宗門内でも意見が分かれているようですから、必ずしも当事者の記述だからといって肯定的意見を書くとは限りませんし、信頼性がないとも言い切れません。最後に物を言うのはその人個人の考えでしょう。--[[利用者:ヌーフ|ヌーフ]] 2007年6月28日 (金) 4:02(UTC)
先に意見を投稿させて頂きましたヌーフです。浄土真宗本願寺派のページでは、MKTさんとも少々の意見交換させて頂きました。ゴリアテさんのように「真宗大谷派の現況を全て知りたいので、活動から批判から評価の声やら書いて頂くとありがたい」という方もいて、この百科事典を閲覧する方もおられると思うので、「事実としてある具体的活動内容、事実としてある客観的肯定意見、事実としてある批判的意見、中立公平性を保てるなら書くべき」と思ってました。今でも思ってます。しかしながら、中立公平性を保った記述なんてできるんでしょうか?宗門に対して何等興味のない人が調べて書けば、第三者から見た中立的視点になるとは思うんですが、そんな興味のない人が、わざわざ調べてまで書くとは思えませんし、それ以前に宗門の紹介項目を開くとも思えません。つまり、記述する方は、宗門に対して何等かの興味をお持ちの方に限られると思うんです。何等かの興味をお持ちなら、宗門の活動に対して、賛成だったり、批判的になったり、必ずご意見があると思います。どちらかの考えが底流にあれば、記述は自然と肯定的になったり、批判的になったりします。そうなれば中立公平性なんて保てるわけがありません。結局のところ、何が一番中立的かといえば、「どういう活動をしているかだけを淡々と記述する」ではないでしょうか?宗門執行部の見解も、肯定的・否定的意見さえも書かない(宗門執行部の見解だけを書いた場合、肯定的意見だけを採用したことと同じことになり、批判的意見の切り捨てと思われ、何も書かなかったとき以上に批判的投稿を加筆される恐れあり)ことなのではないでしょうか?それでも納得しない人は必ずいるでしょうが。結局のところは難しい問題です。編集合戦は、止みそうにないような気がします。さてMKTさん、上記のゴリアテさんのおっしゃる通り、この百科事典に記述する際には関係ありませんが、批判は真摯に受け止めなければなりません。他人の意見は聞かない、自分の考えが正しいでは、議論や話し合いになりません。単なる子供の喧嘩です。私が誤解しているだけかもしれませんが、貴殿は誤解される書き方をなさっておいでです。また、当事者の記述は信頼性に影響する云々とのことですが、信頼性にも、中立性にも疑問は残ります(ゴリアテさんは、なかなか面白い喩えをしておいでです。その喩えが適切がどうかは知りませんけど)。「あまり深く考えてもつまらないこと」というより、「あまり深く考えなくても分かること」という方が適切です。ですが、当事者=宗門関係者として捉えても、宗門内でも意見が分かれている(MKTさんと開真さんのように)ようですから、必ずしも当事者の記述だからといって肯定的意見を書くとは限りませんし、信頼性がないとも言い切れません。最後に物を言うのはその人個人の考えでしょう。--[[利用者:ヌーフ|ヌーフ]] 2007年6月28日 (金) 4:02(UTC)





2007年6月28日 (木) 12:02時点における版

ノート:中京圏にて中京地方という呼称を基本的には使わず東海地方を使うと決まったようです。しかしながら、伝統的に中京地方という呼称の方が文章として正しいのであれば中京地方に付記という形で東海地方を書きたいと思います(中京地方での内部リンクはしない)。その辺りに詳しい方はいらっしゃらないでしょうか。--悠卯斗 2006年12月29日 (金) 05:48 (UTC)[返信]

中京地方の用語を使うには、この記事のどこかに中京地方とは何を指しているのかを定義しないといけません。なお、愛知県・岐阜県・三重県のみを表したいのであれば、東海3県という用語があります。--Knua 2006年12月29日 (金) 17:59 (UTC)[返信]
コメントありがとうございます。中京地方という単語を表記すべき理由があった場合、真宗大谷派という記事に合う表現(中京地方)に付記として誰もが理解できる表現(東海地方)を書く、という方法で理解できる、と考えております。また、上記に加え、文章を壊さないように別途、定義を書くのも考慮したいと思います。--悠卯斗 2006年12月29日 (金) 19:20 (UTC)[返信]

「批判」の項目について

種々の集団の内部において方向を異にする動きがあるのは、宗教団体に限らずそれが団体である限りにおいていわば常態といってよく、そうした動きの中から特定の動きのみを抽出して単独項目とするのは、「百科事典」しての説明にはそぐわない、甚だ偏頗した内容と考える。記入者がどのような意図でこの項目の編集に参画するようになったのかは不明ながら、敢えてこうした内容を本「百科事典」内に記すのであれば、少なくとも各宗教団体の動向を包括した上での単独項目として、別なタイトルを立てて記すべきと考える。特定の団体の説明のみにこうした項目を加えるのは不適当である。以上の署名の無いコメントは、202.32.197.65会話/whois)氏が[2007年6月13日 (水) 08:45(UTC)]に投稿したものです。


種々の集団の内部において方向を異にする動きがあるのは、宗教団体に限らずそれが団体である限りにおいていわば常態といってよいが、「批判」の項目にあるような活動を「真宗大谷派」という団体が「その団体の名前と団体の責任において」行っているのは紛れもない事実であり、「真宗大谷派」の現状を含む同団体の実態をありのままに記述し、説明する責務がある「百科事典」に、「批判」のような記述があろうと、何等偏頗した内容ではなく、逆に「百科事典」の説明にそくした妥当な記述である。また、各宗教団体の動向がどうであろうが、この項目は「真宗大谷派」のことについて説明する項目であるから、「真宗大谷派」が「批判」に記述されたような活動を「真宗大谷派」という「団体の名前と団体の責任において」行っていればこうした記述を加えても不適当ではなく、他の宗教団体の動向まで包括する必要性が全くを持って感じられない。しかし、同時にありのままを記述する「百科事典」にも、中立公平性がなけらばならない。「特定の動きのみを抽出」するのは確かに問題で、「批判」と共に「宗門の見解」「評価する声」を記述する必要はあるように思われる。現時点の記述のままでは、「批判」の内容自体に問題はないが、一方的批判にしか見えず、中立性には欠けている。以上の署名の無いコメントは、221.190.106.189会話/Whois)さんが 2007年6月18日 (月) 07:37 (UTC) に投稿したものです。[返信]


221.190.106.189氏の意見に賛成。「真宗大谷派」という団体のことを紹介しているページなので、もし「批判」に記述されているような活動を「真宗大谷派」という団体が「その団体の名前とその団体の責任において」行っているのが事実なら、他の宗教団体の動向いかんにかかわらず、記述しても何等問題はない。ただし、221.190.106.189氏の言うように、「中立公平性」を十分確保してという条件付きで。--ヌーフ 2007年6月19日 (火) (UTC)


私は202.32.197.65氏の意見の方が妥当だと思います。説明項目の本文に、「他の真宗各派と共に」とか「大谷派や同派が加盟する真宗十派による真宗教団連合の活動内容が」とありながら、他の真宗各派の項目には何らの説明項目もなく、本項目のみにこうした説明項目が置かれている時点で、既に記述に対する中立的態度を欠いており、本項目の他の説明項目の内容(比較的客観的事実が記されていると思います)と比較しても不釣合いな内容のように思われます。「社会的・政治的に踏み込んだ活動をすることから、政治運動的・左翼運動的過ぎであるという批判の声も内外からある。また、大谷派や同派が加盟する真宗十派による真宗教団連合の活動内容が左傾化しているとして、そのことを憂慮し問題視する僧侶の一部や門徒有志による私的団体も存在する。」といった表現も具体性を欠く曖昧なもので、穿った見方をすればこうした活動に対して批判的な意見を煽るような書き方のようにも思います。少なくとも221.190.106.189氏が言われるように、客観的な内容とすべきと思います。ただ、この説明項目を立てた方の意図には、上述のように「左傾化」した動きへの批判が底流としてあるように思いますので、今後加筆をしても、またしても両方の立場からの「編集合戦」が続くことが容易に予想され、結果としていつまで経っても読者が的確な情報を得られないという事態になるのではないでしょうか。こうした宗教関係の項目の場合、執筆者の立場や主観によって煩わしい編集合戦に陥り、十分な情報が得られない事態に至っている項目が多いように思います。本項目についてはこれまでそうした動きが見られなかっただけに大変残念に思います。以上の理由から、この項目に関しては削除、あるいは別項目を立てることが適当と思います。以上の署名の無いコメントは、58.92.173.224会話/[1])氏が[2007年6月24日 (日) (UTC)]に投稿したものです。


まず、上の方の貴重なご意見に思うことは、「他の真宗各派の項目には何らの説明項目もなく」というのは明らかな間違いです。少なくとも「浄土真宗本願寺派」のページには、「現況」という項目で批判と評価する声、政治活動に対する宗門の公式見解が記載されてました。お確かめ下さい。ここの記述よりは、遥かに中立公平でしょう。さて、単なる削除は、必然的に肯定的意見だけを採用し、事実としてある批判的意見を無視するということになり、百科辞典の大原則である事実と中立公平性を欠きます。また、ただ削除したって、再び批判投稿がなされるだけです。「削除のみ」もいけません。「批判のみ」もいけません。双方が納得した上での妥協がなければ、編集合戦に舞い戻るのがオチです。よって、別項目を立てることが望ましいでしょう。しかし、202.32.197.65氏の個人批判をするわけではありませんが、「202.32.197.65」というIPアドレスは、大谷大学管理になっています。大谷大学は真宗大谷派の大学であり、202.32.197.65氏 はほぼ確実に大谷大学関係者と思われ、完全に真宗大谷派側の方です。ですから、202.32.197.65氏のご意見は完全に真宗大谷派側に偏ったものになるのは当然のことです。この時点で中立公平ではありません。つまり、誤解を恐れず、少々ひどい言い方をすれば、202.32.197.65氏のご意見自体が中立公平性を欠いているのです。このページでの202.32.197.65氏のご意見は、自分達への批判を載せない為の言い訳にしか見えないのです。事実としてある自分達に対する批判は真摯に受け止めて欲しいものですが、自分の大学、或いはそれの経営母体への批判投稿があったら、例えそれが事実だとしても、反対意見を述べて削除したくなるのが人間の心理として当たり前でしょう。項目の記載内容に対する議論は、第三者で議論した方が余計な感情も入らずいいと思います。当事者では、どうしても余計な感情が入って、中立公平な観点からの意見は絶対に無理です。でも、今のままでは保護が解除されても編集合戦は続くように私には感じられますがね。--釈教昭 2007年6月27日 (水) (UTC)


私は、九州にある浄土真宗本願寺派に属する寺の副住職を務めさせていただいてる者です。ですからある意味、釈教昭さんがいうところの「当事者」にあたるかもしれません。私どもは確かに、世間様から「政治的」といわれるような活動もさせていただいております。お東さん(真宗大谷派)も同じことをしており、私どもやお東さんや他の真宗十派の皆様方と共に活動させていただいております「真宗教団連合」においても、「政治的」といわれるような活動をさせていただいているのは事実です。そして、それに「政治的過ぎだ」とか「左傾化している」とかおっしゃるご批判を一部の方から賜わっているのも耳にしており、それも事実です。また、私どもの活動を懸念して一部の門徒の方がそれに抗議する私的な団体を関東において結成なさったという噂も小耳に挟んだことがございますので、それもまた事実である可能性が高いと存じます。私は本願寺派の人間ですが、お東さんには本山にも末寺にも知り合いがたくさんおります。私どもやお東さんや真宗教団連合が「批判」という項目に書かれているような活動をし、書かれているようなご批判を賜わっているのは、残念ながら紛れもない事実であります。ですから、「批判」という項目を書かれても仕方がないといえば仕方がないのかもしれません。ですが、これは百科事典です。歴史から現況までのお東さんのすべてのことを知りたい読者の方々の為に事実を書くのは反対は致しません。今ある記述を削除する必要もないでしょう。ですが、皆様方がおっしゃいますように「中立公平的視点」から書いていただきたいのです。お東さんの見解やその活動に賛同される意見も是非書いて頂きたいと存じます。そして、さすがに項目名が「批判」というのだけは変えて頂きたいと存じます。そして、202.32.197.65さんが大谷大学の方であるのは確かなようですね。釈教昭さんがおっしゃいます通り、202.32.197.65さんが「自分達への批判を載せない為の言い訳」をしているのでしたら(必ずしも私にはそうは見えませんが、自分達への批判を書かれるのは確かに気持ちのいいことではありません)、同じ真宗門徒・関係者として202.32.197.65さんに敢えて申し上げたい。「私たちは新興宗教とは違う。私たちに対するご批判には、『団体である限りにおいていわば常態』と開き直らず、真摯に耳を傾けなくてはならない。少なくとも批判が事実と認めた上で反論しよう」と。でも釈教昭さんがおっしゃいます通り、確かに私ども「当事者」がご議論に加われば、どうしてもわが身可愛さに偏った意見をして、公平中立な視点からご意見申し上げるのは無理なことかもしれませんね。--開真 2007年6月27日 (水) 12:25 (UTC)[返信]


ページ浄土真宗本願寺派現況の執筆に関与しました。本願寺派のノートなども見ていただきたいのですが、基本的に私も「中立公平性」をIPの「批判」書き込みに求めています。加えて、ここが大谷派の記載でも問題を感じる点ですが、「左翼的」「政治的」という字句を表現から削りました。「左傾化している」という言説の存在は認めますが、あくまで一部の立場からの「言説」であることの留意が強調されねばなりません。また、そもそも「左翼的」「政治的」という表現自体のあやふやさからして、百科事典の記載に馴染まないものと考えます。ですから、(当事者として)批判を甘受するというのでもなく(その態度自体がこれまた問題です)、あるいは反論するというのでもなく、清濁併せ呑んだ、中立的な記述が求められているのです。

それともう一点。真宗教団連合について。現況では浄土真宗の真宗十派と同義で記述されていますが、実態から言って独立の記事として記載されるべきかもしれません。これは、「批判」項目の中に唐突に教団連合が名前を出すことへの違和感の表明でもあります。

なお、この件に限らず、当事者であるかどうかが記述内容の信頼性に影響するとの心配は、あまり深く考えてもつまらないことだと思います。(私も恐らく当事者でしょうし。)名無しの荒らしは論外ですが。--MKT 2007年6月27日 (水) 16:36 (UTC)[返信]

MKTさんは、「左翼的」「政治的」という貴方から言わせれば「あやふやな表現」を使わず、「中立公平性」を保てば「批判的内容」も書き込んでいいということでしょうか?私としては、真宗大谷派の現況を全て知りたいので、活動から批判から評価の声やら書いて頂くとありがたいのですね。それに書くべきとも思います。「団体が内部で意見がわかれるのは当たり前。だから批判なんて書かなくていい」というような要旨の記述が202.32.197.65さんの記述の中に見られますが、そんなのは論外。それから批判を受け入れないと誤解されるような言い方は大問題ですね。批判は批判として受け止めた上でご自分の意見を言って頂かないと話になりません。そのような真摯な態度がないから批判を受けるのです。「批判を甘受しない」そういう態度が大きな問題です。まあ、これは百科事典に書く際には関係ない話でしょうが、議論の場においては必要なことです。そうしないと議論にさえなりません。釈教昭さんご指摘の「202.32.197.65さんが自分達に対する批判を書かれたくない為の言い訳」を本当にしてるなら、項目への記述にも、このノートへの議論にも参加する資格がおありかどうか、甚だ疑問です。 「当事者であるかどうかが記述内容の信頼性に影響する」ですが、このノートでの議論もそうですが、信頼性も、中立的かも考えなくてはなりませんね。 今話題の社保庁問題で、批判を受けてる当事者の社保庁長官や関係者がその問題に対して「信頼性のある」発言ができるとお思いですか?「中立的観点」から意見が言えるとお思いですか?それと同じことですよ。--ゴリアテ 2007年6月28日 (木) 01 :38 (UTC)

先に意見を投稿させて頂きましたヌーフです。浄土真宗本願寺派のページでは、MKTさんとも少々の意見交換させて頂きました。ゴリアテさんのように「真宗大谷派の現況を全て知りたいので、活動から批判から評価の声やら書いて頂くとありがたい」という方もいて、この百科事典を閲覧する方もおられると思うので、「事実としてある具体的活動内容、事実としてある客観的肯定意見、事実としてある批判的意見、中立公平性を保てるなら書くべき」と思ってました。今でも思ってます。しかしながら、中立公平性を保った記述なんてできるんでしょうか?宗門に対して何等興味のない人が調べて書けば、第三者から見た中立的視点になるとは思うんですが、そんな興味のない人が、わざわざ調べてまで書くとは思えませんし、それ以前に宗門の紹介項目を開くとも思えません。つまり、記述する方は、宗門に対して何等かの興味をお持ちの方に限られると思うんです。何等かの興味をお持ちなら、宗門の活動に対して、賛成だったり、批判的になったり、必ずご意見があると思います。どちらかの考えが底流にあれば、記述は自然と肯定的になったり、批判的になったりします。そうなれば中立公平性なんて保てるわけがありません。結局のところ、何が一番中立的かといえば、「どういう活動をしているかだけを淡々と記述する」ではないでしょうか?宗門執行部の見解も、肯定的・否定的意見さえも書かない(宗門執行部の見解だけを書いた場合、肯定的意見だけを採用したことと同じことになり、批判的意見の切り捨てと思われ、何も書かなかったとき以上に批判的投稿を加筆される恐れあり)ことなのではないでしょうか?それでも納得しない人は必ずいるでしょうが。結局のところは難しい問題です。編集合戦は、止みそうにないような気がします。さてMKTさん、上記のゴリアテさんのおっしゃる通り、この百科事典に記述する際には関係ありませんが、批判は真摯に受け止めなければなりません。他人の意見は聞かない、自分の考えが正しいでは、議論や話し合いになりません。単なる子供の喧嘩です。私が誤解しているだけかもしれませんが、貴殿は誤解される書き方をなさっておいでです。また、当事者の記述は信頼性に影響する云々とのことですが、信頼性にも、中立性にも疑問は残ります(ゴリアテさんは、なかなか面白い喩えをしておいでです。その喩えが適切がどうかは知りませんけど)。「あまり深く考えてもつまらないこと」というより、「あまり深く考えなくても分かること」という方が適切です。ですが、当事者=宗門関係者として捉えても、宗門内でも意見が分かれている(MKTさんと開真さんのように)ようですから、必ずしも当事者の記述だからといって肯定的意見を書くとは限りませんし、信頼性がないとも言い切れません。最後に物を言うのはその人個人の考えでしょう。--ヌーフ 2007年6月28日 (金) 4:02(UTC)


私クリスチャンなんですけどね、真宗僧侶や門徒の皆さんとは、よく「平和運動」などでご一緒させていただいております。本願寺派のページでも、こちらのページでも、編集合戦が起きているようで、大変残念です。私は真宗の方々とも前述ようなのことからお付き合いをさせておりますが、聞いたところによると、真宗内部でも「政治運動的過ぎだ」とか「左傾化している」とか批判の声があるらしいですね。それはキリスト教諸教団も同じです。事実としてある批判を記述することいいのか悪いのか、私には分かりません。しかし、それを書いたが為に編集合戦が起きるというのは間違いです。キリスト教諸教団関係のページを御覧なりましたか?このページでは「書くべきではない」とされている「政治的運動過ぎ・左傾化している」という批判がかなり堂々と記述されています。でも編集合戦は起きてません。なぜでしょうか?宗教違えど、似たような社会的運動をし、似たような批判を受け、似たような批判内容を記述されているにも関わらず、片方では編集合戦が起き、片方では起きてない。私がこのページの記述を拝見してますと、批判的内容を書くことに難色を示してる方々は、皆さん真宗関係者のように感じられます(あくまで私の主観的なものですが・・・)。私が思いますに、これは真宗教団内部に問題があるのではないでしょうか?別件ですが、MKTさん、批判は真摯に受け止めなければなりませんよ。人の意見を受け入れて、その通りにするのが「批判を真摯に受け止める」ことではないんです。「批判の声にも耳を傾ける」ことが「批判を真摯に受け止める」ということなんです。その上で、あとはご自分の責任において判断なさればよろしいことです。話は戻りますが、全投稿者の皆さん、「聞く耳持たん」みたいにどちらかの意見を片っ端から削除してたら、また編集合戦は起こりますよ。。--ロンギヌス 2007年6月28日 (金) 11:41 (UTC)[返信]

');