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「浄興寺」の版間の差分

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*[[真宗大谷派]]
*[[真宗大谷派]]
*[[浄土真宗本願寺派]]
*[[浄土真宗本願寺派]]
*[[西念寺]]


==外部リンク==
==外部リンク==

2007年7月3日 (火) 07:25時点における版

浄興寺じょうこうじ)は、新潟県上越市にある真宗浄興寺派本山の寺院。山号歓喜踊躍山かんぎゆやくざん)。正式な寺号浄土真宗興行寺じょうどしんしゅうこうぎょうじ)という。開山は浄土真宗の開祖親鸞

最盛期には越後信濃出羽の三国に約90か寺の末寺を従えた。真宗大谷派の別格寺院であったが昭和27年(1952年)に真宗浄興寺派として独立した。


沿革

本尊

本尊阿弥陀如来であり、室町時代中期の作とされる来迎形の木造阿弥陀如来立像を安置する。脇持は置かないが、親鸞の真筆とされる九字名号六字名号を脇掛とする。 寺伝によると、当初の本尊は稲田草庵の太子堂にまつられていた親鸞自作の聖徳太子像であったという。現在、浄興寺の太子堂にまつられている像がそれで、14世了性の代に本尊を阿弥陀如来に改めたという。

境内・門前

越後移転後も領主城地の移転、天災などにより境内地を3度にわたって移した。寛文5年(1665年)の地震被害の復興を機に現在地(上越市寺町)に移る。

境内敷地はおよそ一万坪あり、本堂鐘楼経蔵太子堂御殿書院)、食堂庫裏惣門中雀門などを構え、寺内に9ヶ寺の塔頭寺院を抱えていた。

大正4年(1915年)、「寺町大火」により本堂、本廟を除く伽藍のすべてを焼失する。

大正12年(1923年)の御殿、庫裏の再建を初めとして順次復興がすすめられ、現在は山門、本堂、本廟、拝殿、鐘楼、太子堂、宝物殿、経蔵、御殿、庫裏、慈愛堂(ペット慰霊堂)が整備されている。

延宝7年(1679年)建立の本堂は国の重要文化財に指定されている。

9か寺の旧塔頭寺院も存続しているが、現在では各々が宗教法人格を有し真宗浄興寺派の末寺となっている。新潟県柏崎市別院を置くほか2か寺の末寺がある。

最盛期には諸国に触れを伝える従者や使用人が居住するなど門前が賑わったが享保年間以降の停滞期に縮小し、現在では門前町といえるものは存在しない。

文化財

重要文化財(国指定)
  • 本堂
その他
  • 親鸞聖人自筆六字名号
  • 親鸞聖人筆九字名号
  • 蓮如上人六字名号
  • 絹本着色法然上人絵伝
  • 絹本着色親鸞聖人伝絵
  • 木造聖徳太子立像
  • 親鸞聖人笈
  • 六角宝塔(親鸞聖人舎利塔)
  • 四角宝塔(本願寺歴代門主舎利塔)
  • 上杉謙信寄進梵鐘
  • 上杉謙信寄進豆殻太鼓

異説

親鸞の行跡の詳しい記録が残っていないことと浄興寺自体が有為転変を経ているため、その縁起にはいくつかの異説が立てられている。

  • 浄興寺開山否定説
・新宗派や教団を組織することに積極的でなかった親鸞が「浄土真宗興行寺」などという寺号や「仏法二十一箇条の掟」などを書くはずがない。
・親鸞の側近とはかならずしもいえなかった善性に住職が譲られるのは不自然である。
・関東布教の中心地である常陸稲田を廃して信濃に移転するとは考えられない。
・稲田草庵の旧跡に建立されている西念寺稲田御坊)を正嗣と見るべきだ。

などの疑問点から浄興寺の開山縁起をフィクションとする説。

  • 甲斐移転説

13世住職周円は川中島合戦の際に死亡せず息子西順と共に甲斐都留郡小片山(現在の山梨県都留市小型山)に逃れ、同地に浄興寺を再建したとする説。
東京都大田区東矢口には、この甲斐浄興寺の法燈を継いだとする浄土真宗本願寺派の浄興寺が現存している。

  • 再興説

親鸞開山の浄興寺は川中島合戦の兵火で廃絶し、後に善性ゆかりの勝願寺が越後に教線を拡大した際に再興したとする説。

関連項目

外部リンク

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