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「土崎神明社祭の曳山行事」の版間の差分

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土崎神明社の例祭は[[7月1日]]の '''清祓いの儀式''' に始まる一連の行事で、曳山行事はその終盤の例祭に当たり、[[7月22日]]の'''昇神祭'''にて一連の神事の儀式を終える。
土崎神明社の例祭は[[7月1日]]の '''清祓いの儀式''' に始まる一連の行事で、曳山行事はその終盤の例祭に当たり、[[7月22日]]の'''昇神祭'''にて一連の神事の儀式を終える。


[[山車|曳山]]は土崎神明社の氏子の町内として'''奉賛会'''に加盟する各町内ごとに組立てられ奉納される。[[2007年]]現在51町内が奉賛会に加盟しており、そのうち曳山を所有する町内は35町内で、毎年20台前後の数が奉納される。町内では会所が設けられ、会所開きでは各町内の曳山に神様の降臨を招き、厄除けを祈願し、町内を練り歩くことで町内の災いを祓うものとされている。
[[山車|曳山]]は土崎神明社の氏子の町内として'''奉賛会'''に加盟する各町内ごとに組立てられ奉納される。[[2007年]]現在51町内が奉賛会に加盟しており、そのうち曳山を所有する町内は35町内で、毎年20台前後の数が奉納される。町内では会所が設けられ、15日の統前町の大会所開きを皮切りに、各町内の会所開きの神事が行われる。その神事では各町内の曳山に神様の降臨を招き、厄除けを祈願し、20日の宵宮に町内を練り歩くことで町内の災いを祓うものとされている。また、宵宮は子供が中心となり、終日中には土崎神明社に参拝に向かう。曳山は所々で停止して子供の輪踊りや舞方の演舞が行われる。

20日の宵宮は子供が中心となり、終日中には土崎神明社に参拝に向かう。町内の練り歩きもその日に行われ、曳山が所々で停止しては子供の輪踊りや舞方の演舞が行われる。


21日は例祭と呼ばれる。午前中、各町内の曳山は土崎南端の穀保町の[[御旅所]]に曳山が集結する。ここで土崎中の厄をお祓いした御[[神輿]]、御神体を迎える。天照大神を祭る土崎神明社の御神輿の先導は猿田彦が勤める。午後には御神輿が土崎北端の相染町の御旅所に向かい、各曳山はのろしを合図にそれに追行する。それは'''御幸曳山'''(みゆきやま)と呼ばれているが、そこからは子供たちは外れ、大人の曳山になるので酒の勢いもあり力が入る。相染町の御旅所で神事が執り行われ、神事的意味合いの曳山は終わる。
21日は例祭と呼ばれる。午前中、各町内の曳山は土崎南端の穀保町の[[御旅所]]に曳山が集結する。ここで土崎中の厄をお祓いした御[[神輿]]、御神体を迎える。天照大神を祭る土崎神明社の御神輿の先導は猿田彦が勤める。午後には御神輿が土崎北端の相染町の御旅所に向かい、各曳山はのろしを合図にそれに追行する。それは'''御幸曳山'''(みゆきやま)と呼ばれているが、そこからは子供たちは外れ、大人の曳山になるので酒の勢いもあり力が入る。相染町の御旅所で神事が執り行われ、神事的意味合いの曳山は終わる。
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曳山行事には'''秋田三大囃子'''(土崎港囃子・館山囃子・花輪囃子)に数えられる'''土崎港囃子'''(つちざきみなとばやし)が演奏される。この囃子は茨城の天神囃子と似ていることから、天神囃子に元々地元にあった太鼓囃子が加わってできたものではないかと思われる。土崎港囃子には5つの曲目があるが、20日から21日の午前は人を集めるとされる'''寄せ太鼓'''が演奏される。21日の午後の御幸曳山では本祭り用の'''港囃子'''が演奏され、最後の戻り曳山では哀愁漂う'''あいや節'''が演奏される。通常あまり知られてない曲として、御幸曳山のときに県道を渡ってから囃されるめでたい席のための'''港剣囃子'''と、相染町が土崎に加盟したときに創作された'''加相囃子'''があるが、囃子方の会によって演奏しない会もある。
曳山行事には'''秋田三大囃子'''(土崎港囃子・館山囃子・花輪囃子)に数えられる'''土崎港囃子'''(つちざきみなとばやし)が演奏される。この囃子は茨城の天神囃子と似ていることから、天神囃子に元々地元にあった太鼓囃子が加わってできたものではないかと思われる。土崎港囃子には5つの曲目があるが、20日から21日の午前は人を集めるとされる'''寄せ太鼓'''が演奏される。21日の午後の御幸曳山では本祭り用の'''港囃子'''が演奏され、最後の戻り曳山では哀愁漂う'''あいや節'''が演奏される。通常あまり知られてない曲として、御幸曳山のときに県道を渡ってから囃されるめでたい席のための'''港剣囃子'''と、相染町が土崎に加盟したときに創作された'''加相囃子'''があるが、囃子方の会によって演奏しない会もある。


曳山は各所で停まり、子供の輪踊りや大人の演芸が披露される。戻り曳山においては誰でも踊れるようにと'''土崎盆踊り'''が踊られることが多い。
曳山は各所で停まり、子供の輪踊りや大人の演芸が披露される。これは昭和に入ってからの風習だが「踊りを奉納する」と表現することろが多い。戻り曳山においては誰でも踊れるようにと'''土崎盆踊り'''が踊られることが多い。


== 歴史 ==
== 歴史 ==

2007年7月17日 (火) 01:02時点における版

土崎神明社祭の曳山行事(つちざきしんめいしゃさいのひきやまぎょうじ)は、土崎港曳山まつりの愛称で知られる土崎神明社の例祭で、秋田県秋田市土崎港地区で少なくとも18世紀中頃から続くと考えられている祭り。毎年7月20日の宵宮と21日の本祭りの2日間に渡って行われる。平成9年(1997年12月15日に国の重要無形民俗文化財に指定された。かすべ祭りゆかた祭りとも呼ばれる。

概説

進行

土崎神明社の例祭は7月1日清祓いの儀式 に始まる一連の行事で、曳山行事はその終盤の例祭に当たり、7月22日昇神祭にて一連の神事の儀式を終える。

曳山は土崎神明社の氏子の町内として奉賛会に加盟する各町内ごとに組立てられ奉納される。2007年現在51町内が奉賛会に加盟しており、そのうち曳山を所有する町内は35町内で、毎年20台前後の数が奉納される。各町内では会所が設けられ、15日の統前町の大会所開きを皮切りに、各町内の会所開きの神事が行われる。その神事では各町内の曳山に神様の降臨を招き、厄除けを祈願し、20日の宵宮に町内を練り歩くことで町内の災いを祓うものとされている。また、宵宮は子供が中心となり、終日中には土崎神明社に参拝に向かう。曳山は所々で停止して子供の輪踊りや舞方の演舞が行われる。

21日は例祭と呼ばれる。午前中、各町内の曳山は土崎南端の穀保町の御旅所に曳山が集結する。ここで土崎中の厄をお祓いした御神輿、御神体を迎える。天照大神を祭る土崎神明社の御神輿の先導は猿田彦が勤める。午後には御神輿が土崎北端の相染町の御旅所に向かい、各曳山はのろしを合図にそれに追行する。それは御幸曳山(みゆきやま)と呼ばれているが、そこからは子供たちは外れ、大人の曳山になるので酒の勢いもあり力が入る。相染町の御旅所で神事が執り行われ、神事的意味合いの曳山は終わる。

夜8時ののろしを合図に各曳山は町内に帰る。それが戻り曳山(もどりやま)と呼ばれる一番の見ものである。提灯の明かりで浮き上がった武者人形の合戦の場面を後ろに、角灯篭に浮かび上がらせた囃子方の奏でるあいや節に乗せて波打つように綱を曳くのが良いとされている。

20日・21日の両日は秋田市土崎地区で交通規制が敷かれているが、深夜12時には規制が解除されるので、その時刻に合わせ曳山を通りから退去させなければならないが、交通規制区域を抜けると各町内によって進路や距離の違いもあり、最終的に曳山が収まるのは明け方という町内もある。

21日の本祭りが終わると22日には厄と一緒に神様にお帰り願い曳山は解体される。

各町内での神事としては、会所開きに始まって曳山に飾られた札と会所の祭壇に置かれた御幣と御札を委員長や役員の自宅に納める札納めで一連の神事を終える。7月終わりから8月初めに行われる祭りの反省会である笠収めを祭りの締めとする町内も多い。

曳山

曳山は山と箱型のやぐらが合わさったような形をしており、単に「やま」と呼ばれることが多い。以前は「曳山車」となっていたが、文化財の指定にあたり「車」の文字をはずすことにした。台車はケヤキ等の材料で枠組みされ、木製の車軸に木製の車輪。回転を補助するために軽油にサラダ油やひまし油を混ぜたものを注ぐ。そこ結果、独特の軋む音と匂いを発する。

前方の山型には人形が飾られる。中央部分に黒木綿で木組みを覆った男岩と女岩を配し、その中央からは滝を流す。そのために場面の前方には波しぶきを配することが多い。人形が乗るステージをザルと呼び、そこには合戦の場面の題名の外題札と人形の人物を表す人形札町名札と曳山の順番を決めた号車札が取り付けられる。人形は勇壮な武者人形で通常曳山1台につき2~3体が設置され、港衆の魂の表れとして合戦の場面や歴史的な場面を表現する。太平洋戦争後に血なまぐさい場面が多いと禁止されていたが、少し軟らかく復活させたのだという。

古くは組み立てには全て縄を使用していたので、かけ師と呼ばれる組み立て専門職人もいたが、昨今の事情で釘やネジ、番線、結束具も使用するようになり自町内で組立てるようになった。ザルの周りには山ツゲを配し、ツゲを刺す部分と岩の中には柳を使用し、ゴツゴツ感を出す。そのツゲと柳も独特の匂いを発する。岩の中央には杉の枝、両側には松の枝という配置をすることが多い。天然物の材料が入手困難になっており、今後の組み立ての動向が気になるところ。

岩の裏には箱型のやぐら(お囃子所)が組まれ太鼓が設置され、赤を基調とした角灯篭のワクの中に太鼓・鐘・笛によるお囃子方が乗る。そのやぐらの上にはその時期の風刺として見返し札が乗り、隣に風刺人形として見返しのおとぼけ人形を乗せる。

なお、曳山は山・箱のどちらにも曳く為の綱を出せるようにしてあるが、神明社に参拝に向かうときには人形側を前にするという決まりがあり、神明社に向かう方を優先するという決め事から山を前方としている。

曳山の高さは、現在では電線やケーブルに掛からないよう、4.7m以内という規定を設けているが、通常は5mを基準に組み立てられ、岩組みの頂上を可動式にしてる町内もある。

囃子・演芸

曳山行事には秋田三大囃子(土崎港囃子・館山囃子・花輪囃子)に数えられる土崎港囃子(つちざきみなとばやし)が演奏される。この囃子は茨城の天神囃子と似ていることから、天神囃子に元々地元にあった太鼓囃子が加わってできたものではないかと思われる。土崎港囃子には5つの曲目があるが、20日から21日の午前は人を集めるとされる寄せ太鼓が演奏される。21日の午後の御幸曳山では本祭り用の港囃子が演奏され、最後の戻り曳山では哀愁漂うあいや節が演奏される。通常あまり知られてない曲として、御幸曳山のときに県道を渡ってから囃されるめでたい席のための港剣囃子と、相染町が土崎に加盟したときに創作された加相囃子があるが、囃子方の会によって演奏しない会もある。

曳山は各所で停まり、子供の輪踊りや大人の演芸が披露される。これは昭和に入ってからの風習だが「踊りを奉納する」と表現することろが多い。戻り曳山においては誰でも踊れるようにと土崎盆踊りが踊られることが多い。

歴史

土崎の歴史は、土崎港の歴史を参照。

久保田城の建設で大半の住民が現秋田市中心地区に引越し、土崎は一時廃れたが、北前船などの西回り航路の開拓で、貿易港として復興したことをきっかけに、港の鎮守神を作ろうと、当時、久保田藩の御用商人として土崎の地に来ていた川口惣治郎の氏神の神明堂を湊城跡地に土崎神明社として1620年に建造した。

その後の記録に残ることとしては1778年に土崎の船乗り達が神明社にお神輿を寄贈したという記録もあるので、土崎港祭りの歴史はそのころからのことと推測される。

寛政元年(1789年)に久保田藩の江戸藩邸御用商人であった津村淙庵が執筆したとされる「雪のふる道」には、四十もの山車が曳かれている様子が書かれている。

明治時代に入るころには町内ごとに曳山を競うようになり、高さ・大きさを誇るようになった。最大八丈五尺とも言われ、明治以降の記録では永覚町が七丈(約21m)の曳山を出した記録がある。そんな曳山は倒れてしまうので、横の小路から綱を張って支えた。

しかし、電気が普及し電線が登場してからは、曳山の高さは下げざるを得なくなった。現在は、先述のとおり通常5m程度の高さに組み立てられ、さらに電線に引っかからないように曳山の上に人を配置している。

地元のジャスコ土崎港店では、毎年祭りの時期になると10m程度の曳山飾りが作られる。にこれは置山と呼ばれる。曳山と違い実際に動くわけではないが、飾られる武者人形は実際に使用できるものであるため、その高さによる迫力は一見の価値がある。神明社近くの街区公園や神明社境内、中央通り、セリオンなどに組まれたこともある。

その他

  • 港町で保存食の乏しい時期でもあるので、ガンギエイの干物を戻し、醤油等で甘辛く煮付けたものを祭りに食するという風習からかすべ祭り(「かすべ」とはガンギエイのこと)とも呼ばれていた。また、昭和に入って町内ごとに浴衣を統一するのが流行り、ゆかた祭りと呼ばれることもある。
  • 土崎駅前開発で道路拡張工事に伴い、神明社の祭館と拝殿が改築されることに伴い、鳥居をかさ上げしたので2006年より20日参拝時に町内の山車が鳥居をくぐることが可能となった。ただし、経路と時間、曳山の大きさ等で全ての町内が通るわけでもない。

関連項目

外部リンク

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