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'''酒井 忠恭'''(さかい ただずみ、[[1710年]]([[宝永]]7年) - [[1772年]][[8月11日]]([[安永]]元年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]))は、[[江戸時代]]中期の[[大名]]。[[播磨国]][[姫路藩]]の藩主。[[越前国]][[敦賀藩]]主・[[酒井忠菊]]の三男。官位は従四位下。雅楽頭。左少将。 |
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兄・[[酒井親本]]の後を受けて藩主となった。[[1749年]]、[[松平朝矩]]の後を受けて[[上野国]][[前橋藩]]より15万石で入部する。しかしこの国替えの裏で、とんでもない事件が起こる。 |
兄・[[酒井親本]]の後を受けて上野前橋藩主となった。[[1749年]]、[[松平朝矩]]の後を受けて[[上野国]][[前橋藩]]より15万石で入部する。しかしこの国替えの裏で、とんでもない事件が起こる。 |
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[[酒井氏]]は前橋にいた頃から、すでに財政が悪化していた。前橋があまり豊かでなかったことが大きかったが、そのために当時の家老・[[本多光彬]]や[[江戸]]の用人・[[犬塚又内]]らは幕府に対して盛んに運動し、実質の石高よりも豊かと言われている播磨姫路に移封することを実現させたのである。ところが、同じく家老の[[河合定恒]]がこれを快く思わず、移封後の[[1751年]]、光彬と又内両名を惨殺し、地震も切腹するという事件が起こったのである。このため、酒井氏の移封後から藩士の移住が大幅に遅れるわ、たびたび領内に[[台風]]が訪れては死者・行方不明者を400人以上も出すなどの大被害を受けて、酒井氏はますます財政が悪化した。 |
[[酒井氏]]は前橋にいた頃から、すでに財政が悪化していた。前橋があまり豊かでなかったことが大きかったが、そのために当時の家老・[[本多光彬]]や[[江戸]]の用人・[[犬塚又内]]らは幕府に対して盛んに運動し、実質の石高よりも豊かと言われている播磨姫路に移封することを実現させたのである。ところが、同じく家老の[[河合定恒]]がこれを快く思わず、移封後の[[1751年]]、光彬と又内両名を惨殺し、地震も切腹するという事件が起こったのである。このため、酒井氏の移封後から藩士の移住が大幅に遅れるわ、たびたび領内に[[台風]]が訪れては死者・行方不明者を400人以上も出すなどの大被害を受けて、酒井氏はますます財政が悪化した。 |
2005年3月30日 (水) 04:23時点における版
酒井 忠恭(さかい ただずみ、1710年(宝永7年) - 1772年8月11日(安永元年7月13日))は、江戸時代中期の大名。播磨国姫路藩の藩主。越前国敦賀藩主・酒井忠菊の三男。官位は従四位下。雅楽頭。左少将。
兄・酒井親本の後を受けて上野前橋藩主となった。1749年、松平朝矩の後を受けて上野国前橋藩より15万石で入部する。しかしこの国替えの裏で、とんでもない事件が起こる。
酒井氏は前橋にいた頃から、すでに財政が悪化していた。前橋があまり豊かでなかったことが大きかったが、そのために当時の家老・本多光彬や江戸の用人・犬塚又内らは幕府に対して盛んに運動し、実質の石高よりも豊かと言われている播磨姫路に移封することを実現させたのである。ところが、同じく家老の河合定恒がこれを快く思わず、移封後の1751年、光彬と又内両名を惨殺し、地震も切腹するという事件が起こったのである。このため、酒井氏の移封後から藩士の移住が大幅に遅れるわ、たびたび領内に台風が訪れては死者・行方不明者を400人以上も出すなどの大被害を受けて、酒井氏はますます財政が悪化した。
忠恭の後は、孫の酒井忠以が継いだ。