「瀬戸一家」の版間の差分
編集の要約なし |
参考文献の追加 |
||
29行目: | 29行目: | ||
*[[芹沢耕二]]、[[鴨林源史]]『実録 王道ヤクザ伝 山口組六代目 司忍』[[竹書房]]、2007年、ISBN 978-4-8124-6604-9 |
*[[芹沢耕二]]、[[鴨林源史]]『実録 王道ヤクザ伝 山口組六代目 司忍』[[竹書房]]、2007年、ISBN 978-4-8124-6604-9 |
||
*『司法資料 賭博に関する調査(全三巻(復刻版))』[[風媒社]]、1981年07月、ISBN 9784833103978 |
*『司法資料 賭博に関する調査(全三巻(復刻版))』[[風媒社]]、1981年07月、ISBN 9784833103978 |
||
*藤田五郎「東海の親分衆」(青樹社) |
|||
[[Category:中部地方の暴力団|せといつか]] |
[[Category:中部地方の暴力団|せといつか]] |
2008年9月10日 (水) 08:17時点における版
瀬戸一家(せといっか)は愛知県瀬戸市に本拠を置く博徒系暴力団で、指定暴力団・六代目山口組の2次団体。
歴史
この記事の内容の信頼性について検証が求められています。 |
瀬戸一家の歴史は、そのまま中京のやくざ社会の歴史でもある。初代の井上松吉(井上愛吉)は水野村吉五郎の有力な子分であったが幕末から明治初期にかけて愛知県東春日井郡瀬戸町(現瀬戸市)を縄張りとする瀬戸一家を興した人となる。近隣の北熊一家とは数度に渡り喧嘩を繰り返した、とされる。この初代の愛吉は賭博犯処分規則により1884年頃に囹圄の人となるとそのまま獄死している。
愛吉の子分の中で跡目と目されていたのは河尻良吉だが、愛吉の実子で美濃の梅屋一家の跡目を継いでいた井上金之助(井上清住)に圧迫されついに河尻の一派は潰されてしまう。この時、良吉の子分だった松原繁十は金之助の子分に直っている。
瀬戸の二代目となった井上金之助は縄張りを近隣四方へ広げ、身内の中にも「四天王」「八天下」と呼ばれた有力な子分を抱えていた。しかし、その跡目については誰にするか決めずに1905年頃に死去している。没後、その遺言により跡目となったのは松原である。実力においては周りの親分たちに劣るが金廻りがよく、また二代目にも孝行を尽くしたとされている。松原が三代目となった結果、彼よりも実力のあった二代目の子分たちが濃尾平野から多治見、恵那といった丘陵地、さらに飛騨まで広がっていた縄張り内において独自の一派の形成に力を注ぐ結果となり、後の瀬戸一家の原型が形づけられていく。
その反面で瀬戸一家内部でも抗争事件は度々起きており、また1897年の刑法改正による賭博犯の現行犯以外の逮捕、いわゆる「後割(あとわれ)」は博徒に大きな打撃を与えた。その中でも松原は大過なく一家をまとめあげ、直系派と呼ばれる松原派を形成した。この一派で実力者とされたのが桜井林蔵と加藤幸助であるが、桜井には実力派の子分が多かった。1918年頃に松原が瀬戸一家の四代目を桜井に譲ってから、1年程でその桜井が隠居分となり五代目を当時まだ30代半ばの中島勇次郎が襲名した。中島の嫁は加藤幸助の娘である。
この中島襲名は、桜井の子分で己が跡目になると考えていた黒田鉄太郎(黒鉄)の怒りを生み、黒鉄は桜井を襲撃した。隠居への反逆により「朝敵(ちょうてき)」と呼ばれ追われる身となった黒鉄は瀬戸一家の包囲網から逃げ切れないと悟り警察へ逃げ込んだ。傷害罪で逮捕、懲役刑に服した黒鉄だが刑務所の中にも刺客が送り込まれていた。重傷を負ったものの奇跡的に命が助かった黒鉄は後に瀬戸一家へ詫びを入れて許される事となる。五代目の中島の父は二代目金之助の子分であり宿敵北熊一家との喧嘩で命を落としていた。このため、父の仇であり昔日の勢いを無くしていた北熊一家を圧迫し続けた中島はその縄張りを強奪している。
中京に勢力を築いてきた五代目瀬戸一家だが、1944年に中島が没すると博打打ちの米櫃である賭場が立たないために一時はその勢力も衰退している。昭和20年代稲葉地一家、三吉一家とともに導友会を結成。後に三吉一家は導友会に発展するが、この迷走があった瀬戸を盛り返したのが中島の総領子分の杉浦猶吉の流れを汲む川島五郎であった。中興の祖と呼ばれる川島は劇的な事件を経て六代目を襲名。GHQによる団体等規正令に基づく解散指令の弾圧にも耐え「超ワンマン」と呼ばれた強い指導力で草生費場所(くさばえひばしょ)となっていた瀬戸一家のシマを再び盛り返していき「一枚岩」の団結を伝統とする瀬戸一家の結束力を蘇らせた。これは同時に瀬戸一家100年の歴史の積み重ねが根底にあった証明でもある。
川島は七代目を総領子分の田中治六と決定したが、田中は胸を患っており1950年代の後半に病死している。隠居分であった川島はこの危機にも田中治六の子分で形ノ原一家(蒲郡市)へ養子に出していた小林金次を、小林が形ノ原一家の総長であったにも関わらず瀬戸一家へ戻して八代目総長を襲名させた。全ての憂いを無くした川島は1961年に病没している。しかし、川島が没しても各派の頭領たち、川島が「兄弟」と呼び「叔父貴」と呼んだ親分たちは10人以上が現役であった。作家の藤田五郎は太平洋戦争後も瀬戸一家の伝統は続いており「瀬戸一家は戦士の集団であり、元老達もまた老戦士たちであった」としている。1962年に瀬戸一家は瀬戸親睦会を結成した。
中京戦争の後、瀬戸一家、運命共同会、導友会、稲葉地一家、平野一家は、中京五社会を結成した。
平成3年(1991年)、運命共同会の中の鉄心会の一部の組員が、運命共同会に対して、五代目山口組弘道会への移籍を求めた。運命共同会は、移籍を求めた鉄心会組員全員を破門にした。
同年1月26日、名古屋抗争が勃発した。
その後、運命共同会は瓦解した。また、中京五社会も、瓦解した。
同年3月、瀬戸一家・渡辺啓一郎総裁は、五代目山口組・渡辺芳則組長から盃をもらい、山口組直参となった。
参考文献
- 芹沢耕二、鴨林源史『実録 王道ヤクザ伝 山口組六代目 司忍』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6604-9
- 『司法資料 賭博に関する調査(全三巻(復刻版))』風媒社、1981年07月、ISBN 9784833103978
- 藤田五郎「東海の親分衆」(青樹社)