コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「タイタニック (客船)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
回避行動: 停船して救命ボートを降ろすのは当然の行動
136行目: 136行目:
沈没にいたるほどの損傷を受けた原因として「側面をかすめるように氷山に衝突したため」とする説もある。また、当時の低い製鋼技術のため不純物として硫化マンガンを多量に含んでおり、船体の[[鋼鉄]]が当夜のような低温で特に脆くなる性質だったことが最近のサンプル調査で分かっている。
沈没にいたるほどの損傷を受けた原因として「側面をかすめるように氷山に衝突したため」とする説もある。また、当時の低い製鋼技術のため不純物として硫化マンガンを多量に含んでおり、船体の[[鋼鉄]]が当夜のような低温で特に脆くなる性質だったことが最近のサンプル調査で分かっている。


タイタニック船長・スミスは海水の排水を試みようとしたがほんの数分の時間を稼ぐ程度にしかいたらず、ほぼ効果なく徒労に終わった。日付が変わった[[4月15日]]0時15分、遭難信号『CQD』を発信、付近の船舶に救助を求めた。わずか30kmほどの距離に停泊中の貨物船・[[カリフォルニアン]]があったが、1人しかいない通信士が就寝中で連絡が伝わらなかった。又、カナディアン・パシフィック社の[[マウント・テンプル]]号も受信し救助に向かったが、タイタニックから20キロ未満まで来てから、船長のヘンリー・ムーアが氷山を恐れて停船し、明かりを消して死んだフリをした。(査問委員会に提出された航海日誌では88キロと記録されている。)''複数の乗客が、'''タイタニックの折れる音を聞いた。'''と証言している。''結局、およそ90km離れたところにいた客船・[[カルパチア (客船)|カルパチア]]が応答し全速で救助に向かったが、船足の遅いカルパチアが現場に到着したのは沈没後の4時であった。もし、スミス船長が機関停止せずにカルパチアに向けて航行する決断をしていれば、実は沈没前に両船は会合することが可能だった{{要出典}}、とも言われているが、船体に穴が開いた状態で航行を続ければ、抵抗で破損部がめくれあがって浸水量も増え、より早く沈没しただろう。((''関連項目''[[ルシタニア号]]  [[ブリタニック]](2代)を参照。))
タイタニック船長・スミスは海水の排水を試みようとしたがほんの数分の時間を稼ぐ程度にしかいたらず、ほぼ効果なく徒労に終わった。日付が変わった[[4月15日]]0時15分、遭難信号『CQD』を発信、付近の船舶に救助を求めた。わずか30kmほどの距離に停泊中の貨物船・[[カリフォルニアン]]があったが、1人しかいない通信士が就寝中で連絡が伝わらなかった。又、カナディアン・パシフィック社の[[マウント・テンプル]]号も受信し救助に向かったが、タイタニックから20キロ未満まで来てから、船長のヘンリー・ムーアが氷山を恐れて停船し、明かりを消して死んだフリをした。(査問委員会に提出された航海日誌では88キロと記録されている。)''複数の乗客が、'''タイタニックの折れる音を聞いた。'''と証言している。''結局、およそ90km離れたところにいた客船・[[カルパチア (客船)|カルパチア]]が応答し全速で救助に向かったが、船足の遅いカルパチアが現場に到着したのは沈没後の4時であった。((''関連項目''[[ルシタニア号]]  [[ブリタニック]](2代)を参照。))
ちなみにタイタニックは当時制定されたばかりの新しい救難信号『[[SOS]]』を途中からCQDに代えて使用したが、SOSを世界で初めて発信したとする説は誤りである(1909年6月、アゾレス諸島沖で難破した「スラボニア」が初)。
ちなみにタイタニックは当時制定されたばかりの新しい救難信号『[[SOS]]』を途中からCQDに代えて使用したが、SOSを世界で初めて発信したとする説は誤りである(1909年6月、アゾレス諸島沖で難破した「スラボニア」が初)。



2008年10月25日 (土) 14:19時点における版

タイタニック号(1912年4月2日)
船歴
船籍 イギリス
所有 ホワイト・スター・ライン
母港 リヴァプール
発注
起工 1909年3月31日
進水 1911年5月31日
命名
処女航海 1912年4月10日
その後 1912年4月15日に沈没
性能諸元
総トン数 46,328トン
排水量
全長 269.1 m
全幅 28.2 m
全高 10.5 m
吃水
機関 スコッチ式ボイラー24基補助5基、
レシプロ4気筒エンジン2基、
蒸気タービン1基、50,000hp(37 MW)
推進器 混成3軸、3枚羽スクリュー推進、
速力 23ノット(42.6km/h)
定員 船客数:1等329人、2等285人、3等710人
乗組員数:899人

タイタニックRMS Titanic)は、20世紀初頭に建造された豪華客船

1912年4月14日の深夜に氷山に接触し、翌日未明にかけて沈没。乗員乗客1,513人(※1,490人、1,517人、1,522~23人など様々な説がある)が犠牲となり、当時世界最悪の海難事故となった。その後、映画化されるなどして世界的にその名を知られている。

概要

タイタニックはイギリスホワイト・スター・ラインが北大西洋航路用に計画した3隻の旅客船のうちの2番船であった。姉妹船にオリンピック、のちに病院船として運行されたブリタニックがある。トーマス・アンドリューズによって設計され、北アイルランドベルファストにあるハーランド・アンド・ウルフで建造された、当時世界最大の客船である。タイタニックの正式名称は『R.M.S.(Royal Mail ShipまたはSteamer)Titanic』。

建造

造船計画

タイタニック号の造船計画は、20世紀初頭に造船業としての勢力を保っていたハーランド・アンド・ウルフの会長・ピリーが、1907年ロンドンのメイフェアの夕食会でホワイト・スター・ラインのイズメイ社長に大型客船3隻の造船計画を発案したことに始まる。

「不沈船」

建造中のタイタニック号 船尾スクリュー
1等船室用のレセプション
プロムナードデッキ
タイタニック(黒地)と他の乗り物との比較

ホワイト・スター・ラインは当時白熱していた北大西洋航路における「ブルーリボン賞」と呼ばれるスピード競争にはあまり関心を示さず、ゆったりと快適な船旅を売り物としていた会社であった。したがって、タイタニックもスピードより設備の豪華さに重点を置いて設計されていた。また、安全対策にも力が入れられており、防水区画が設けられていた。

船体は喫水線(水面)上までの高さがある防水隔壁で16の区画に区分され、そのうちの2区画(船首部では4区画)に浸水しても沈没しない構造になっており、隔壁は船橋(ブリッジ)からの遠隔操作で即時閉鎖できた。そのためタイタニックは「不沈船」として喧伝されていた。実際、船の構造は現在から見てもかなり安全なものである、との指摘もある。しかし、完全密閉された区画でなく、上部メインデッキにおける全区画が吹き抜けでつながっていたことにより、無傷であった区画にまで次々と多量の浸水がおこり、沈没を決定づけてしまったことも事実である。

「オリンピッククラス」

先述通り、タイタニックには1年先立って竣工した姉船・オリンピックと、妹船・ブリタニックが存在した。これはドル箱航路であり、他社との競争も激しい北大西洋を航海する際に1隻では賄いきれない為、最低2隻を常に交代させる必要があった為である。客船3隻の先駆けとしてオリンピックの造船が開始され、ほぼ同時期に2番船タイタニックが、少し遅れて3番船ブリタニックの造船が開始された。

ブリタニックはタイタニック沈没により大幅に造船が遅れ、安全面も大きく見直され再設計されるものの、第一次世界大戦勃発により病院船として徴用、商船として一度も使われないまま沈没した。一方オリンピックは輸送船として徴用されたが、無事戦火を潜り抜け客船として復帰、1935年まで現役を勤め引退する(詳細はオリンピック (客船)ブリタニック (客船・2代)を参照)。

タイタニックはオリンピックとほぼ同時期に造船が開始された事もあって、大階段やダイニングルームの装飾、食事のメニューや客室サービスなど、その外観のみならず全てにおいて瓜二つであった。映画「タイタニック」では、まるでタイタニックのみが最も巨大な船であるかのように演出されていたが、当時はオリンピックがその代表であり、タイタニック、ブリタニックという2隻の姉妹船を含め「オリンピッククラス」と呼ばれていた。その為、タイタニックの写真としてオリンピックが使われる事が度々行われていた。つまりタイタニックは二番煎じであり、当時はオリンピックの陰に隠れた存在であった。

オリンピックとの差違点

しかし、先立って運行されていた一番船オリンピックの問題面や改善点を受けてタイタニックの設計は多少変更され、外観もオリンピックとは多少異なってきた。例えばAデッキの一等専用プロムナードデッキ(遊歩道)の窓がオリンピックは全体が海に対しベランダ状に吹さらしとなっていたのに対し、タイタニックは、中央部分から船首側の前半部分にガラス窓を取り付け半室内状にした。これは北大西洋の強風から乗客を守る為であり、結果タイタニック号はオリンピック号よりもすっきりとしたスマートな印象になり、外観上で2つの姉妹船を判断する決定的な要素となった。

他にも、オリンピックはBデッキの窓際全体にもプロムナードデッキが設けられていたが、タイタニックの設計図からはBデッキのプロムナードデッキが廃止され、代わりに窓際全体に1等船室を新たに設けるように変更された。その結果、1等船室の数がオリンピックとは比べられない程増え、オリンピックには無い専用のプロムナードデッキがついたスイートルーム(映画「タイタニック」のヒロインの婚約者の部屋)が2部屋設計される事になった。

「世界最大の客船」

当初両姉妹船の重量は同じになる筈であったが、客室の数が増えた為に最終的にタイタニックの重量はオリンピックの45,324tよりも1,004t重い46,328tになった。厳密な意味で言えばタイタニックはオリンピックを越し、当時確かに世界最大の客船であったと言えるだろう。しかし、陰に隠れていたタイタニックの知名度が上がるのは皮肉な事に沈没事故の後であり、悪い意味によるものだった。

遭難

航行

タイタニックの遭難地点 1912年4月15日
タイタニックと接触して沈没の原因となったと考えられている氷山。タイタニックの破片と同じ赤い塗料のようなものがこびりついていた。氷山の規模は写真からは分からない
船体(hull)と氷山(iceberg)の衝突状況
ファイル:Titanic new york.jpg
衝突しそうになったタイタニック、ニューヨーク

1912年4月10日イギリスのサウサンプトン港からタイタニックは処女航海に出航した。その際、タイタニックのスクリューから発生した水流によって、客船ニューヨークと衝突しそうになった。E・J・スミス船長以下乗員乗客合わせて2,200人以上を乗せていた。フランスシェルブールアイルランドのクイーンズタウン(現コーヴ) に寄港し、アメリカニューヨーク港に向かった。

ただし出航の際、双眼鏡の収納ロッカーの鍵の引き継ぎがなされないまま鍵を持った船員が退船してしまったため、ロッカー内にある双眼鏡を取り出せなくなった。そのため、双眼鏡を使わずに肉眼で見るしかなくなった。これがのちに致命的な影響をもたらす一因となる。

同日午前よりたびたび当該海域における流氷群の危険が船舶間の無線通信として警告されていた。少なくともタイタニックは4月14日に6通の警告通信を受理している。しかし、この季節の北大西洋の航海においてはよくあることだと見なされてしまい、タイタニックの通信士たちは旅客達の電報発信業務に忙殺されていた。

4月14日23時40分、北大西洋のニューファンドランド沖に達したとき、タイタニックの見張りが前方450mに高さ20m弱の氷山を肉眼で発見した。ただし前述の通り、双眼鏡は使えなかったので、発見したときには手遅れだった(タイタニックの高さは、船底から煙突先端までで52.2m。氷山はその10%程度しか水上に姿を現さないので、水面下に衝突する危険が高い)。

回避行動

見張り員のフレデリック・フリートはただちに鐘を3回鳴らし、ブリッジへの電話をつかんだ。応答したのはジェームズ・ポール・ムーディ6等航海士だった。

(フリート)Is anyone there!(だれかいるのか!)

(ムーディ)Yes、What you see?(ああ、どうした?)

(フリート)Iceberg rightahead!(真正面に氷山!)

(ムーディ)Thank you.(ありがとう)

ムーディはただちに一等航海士のウィリアム・マクマスター・マードックに報告した。マードックは即座に Hard Starboard!(面舵一杯!)と操舵員のロバート・ヒッチェンスに叫び、それからテレグラフ(機関伝令器)に走ると、Full Astern(全速後進)の指令を送ったが、すでに遅かった。22.5ノットから停止するまでに、実に1200mもの距離が必要だったからだ。 このとき、左へ舵を切ると同時にエンジンを逆回転に入れ衝突数秒前船舶の操船特性である「キック」を使うため右へ一杯舵を切ったが、ただでさえ効きのよくない舵が余計に効力を発揮しなくなった。「速力を落とさずにいれば氷山への衝突は回避できた」という説もあるが、あくまで結果論である。そもそも衝突時にはかなりの速力が出ていたことが予想されるため、舵効きに影響はなかったようである。船首部分は回避したが、船全体の接触は逃れられなかった。氷山は右舷にかすめ、同船は停船した。

衝撃は船橋(ブリッジ)では小さく、回避できたかあるいは被害が少ないと思われた。船と氷山は最大限10秒間ほどしか接触しておらず船体の傷はせいぜい数インチ程度で、損傷幅を合計しても1m²程度の傷であったことが後の海底探索によって判明している。

だが、右舷船首のおよそ90メートルにわたって細長く生じた損傷は船首の5区画に浸水をもたらした。これは防水隔壁の限界を超えるもので、隔壁を乗り越えて次々と海水が防水区画から溢れ、船首から船尾に向かって浸水が拡大、同船は船首よりゆっくりと沈没をはじめた。

沈没にいたるほどの損傷を受けた原因として「側面をかすめるように氷山に衝突したため」とする説もある。また、当時の低い製鋼技術のため不純物として硫化マンガンを多量に含んでおり、船体の鋼鉄が当夜のような低温で特に脆くなる性質だったことが最近のサンプル調査で分かっている。

タイタニック船長・スミスは海水の排水を試みようとしたがほんの数分の時間を稼ぐ程度にしかいたらず、ほぼ効果なく徒労に終わった。日付が変わった4月15日0時15分、遭難信号『CQD』を発信、付近の船舶に救助を求めた。わずか30kmほどの距離に停泊中の貨物船・カリフォルニアンがあったが、1人しかいない通信士が就寝中で連絡が伝わらなかった。又、カナディアン・パシフィック社のマウント・テンプル号も受信し救助に向かったが、タイタニックから20キロ未満まで来てから、船長のヘンリー・ムーアが氷山を恐れて停船し、明かりを消して死んだフリをした。(査問委員会に提出された航海日誌では88キロと記録されている。)複数の乗客が、タイタニックの折れる音を聞いた。と証言している。結局、およそ90km離れたところにいた客船・カルパチアが応答し全速で救助に向かったが、船足の遅いカルパチアが現場に到着したのは沈没後の4時であった。((関連項目ルシタニア号  ブリタニック(2代)を参照。)) ちなみにタイタニックは当時制定されたばかりの新しい救難信号『SOS』を途中からCQDに代えて使用したが、SOSを世界で初めて発信したとする説は誤りである(1909年6月、アゾレス諸島沖で難破した「スラボニア」が初)。

脱出・救命

沈没するタイタニック Willy Stöwer画
カルパチアに近づく救命ボート

沈没が差し迫ったタイタニックでは左舷はライトラー2等航海士が、右舷はマードック1等航海士が救命ボートへの移乗を指揮し、ライトラーは1等船客の女性・子供優先の移乗を徹底して行い、一方のマードックは比較的男性にも寛大な対応をした。しかし、当時の英商務省の規定では定員分の救命ボートを備える必要が無く(規定では978人分)、またデッキ上の場所を占め、なによりも短時間で沈没するような事態は想定されていなかったために、1178人分のボートしか用意されていなかった。また定員数を乗せないまま船を離れた救命ボートも多く(定員65人乗りのボートに、70人乗せてテストしたという説があり、その結果浮いてはいられたが推進もバランスも不安定というデマが乗員の間に流れていた)、中には定員の半数も満たさないまま船から離れたボートもあった。

結局、多くの乗員乗客が本船から脱出できないまま、衝突から2時間40分後の2時20分、轟音と共にタイタニックの船体は2つに大きく割れ(海中で3つに分裂)、ついに海底に沈没した。沈没後、すぐに救助に向かえば遭難者の皆が舷側にしがみつき救命ボートまでもが沈没するかもしれないと他の乗組員が恐れたため、数ある救命ボートのうちたった1艘しか溺者救助に向かわなかった(左舷14号ボート)。そのボートは救助に向かう為、再編成をしたロウ5等航海士が艇長のボートであった。しかし、彼が準備を整えて救助に向かった時は既に遅かった。結果、海に投げ出された人々は気温、海水温が低かったため、低体温症などでほとんどが短時間で死亡したと考えられる。低体温症以前に心臓麻痺で数分以内で死亡したとする意見もある。その中には赤ん坊を抱いた母親もいたという。

影響

最新の科学技術の粋を集めた新鋭船の大事故は、文明の進歩に楽観的な希望をもっていた当時の欧米社会に大きな衝撃を与えた。事故の犠牲者数は様々の説があるが、イギリス商務省の調査によると、この事故での犠牲者数は1,513人にも達し、当時世界最悪の海難事故といわれた。

この事故をきっかけに船舶・航海の安全性確保について、条約の形で国際的に取り決めようという動きが起こり、1914年1月「海上における人命の安全のための国際会議」が行われ、欧米13カ国が参加、「1914年の海上における人命の安全のための国際条約」(The International Convention for the Safety of Life at Sea,1914)として採択された。また、アメリカでは船舶への無線装置配備の義務付けが強化され、無線通信が普及するきっかけになったとされる。

その他

ファイル:Titanic-bow seen from MIR I submersible.jpeg
沈没したタイタニック 2003年6月、ロシアのMir I潜水艇の外部カメラによる画像
唯一の日本人乗客
タイタニックには唯一の日本人乗客として、ロシア研修から帰国途上の鉄道院副参事であった細野正文が乗船していた。鉄道院副参事はおおむね現在の国土交通省大臣官房技術参事官に当たる役職。細野は音楽家・細野晴臣の祖父にあたる。
  • なお、細野について、1997年、ジェームズ・キャメロン監督の映画『タイタニック (1997年の映画)』公開前の、産経新聞10月29日夕刊において、以下のような捏造とも言える間違った報道がされ、その内容が広く世間に流布された。
    • 有色人種差別的な思想を持っていた他の白人乗客が書いた手記によって、「人を押しのけて救助ボートに乗った」という汚名を長い間着せられた。このことは「恥ずべき日本人の行為」として第二次世界大戦前の日本の小学生向けの教科書にまでも取り上げられたが、細野は一切弁明をせずその不当な非難に生涯耐えた。
    • 死後の1941年になって、本人が救助直後に残した事故の手記が発見され、その後1997年には細野とその白人乗客が別の救命ボートに乗っていたという調査報告がなされたため、名誉回復されることになった。
  • だが、ジャーナリストの安藤健二が一次情報から再調査すると、上記の内容はまったくの間違いで、この件に関して欧米人からの人種差別的中傷は無かったことがわかった。(『新潮45』2007年3月号に発表。のちに、安藤の著書『封印されたミッキーマウス』(洋泉社 2008年5月刊行)に収録。)
    • 外国人の著作で、細野を非難している表現はみつからなかった。産経新聞の報道では、「ローレンス・ビーズリーの手記で非難されている」とあったが、その手記が収録されている本、ジャック・ウィッカー編『SOSタイタニック号』(恒文社)のビーズリーの手記の原文にそのような記述はなかった。また、「週刊大衆」1970年2月12号に「ウォルター・ロードの本で細野が非難されている」という記事が掲載されているが、該当書、ウォルター・ロード『タイタニック号の最期』(ちくま文庫)の原文にも、細野への非難はなかった。
    • また、上記「週刊大衆」の記事では、細野の「名誉回復」運動をしていた子息の細野日出男が、「アメリカ留学をした際に、大学図書館などでタイタニック関係の記事を徹底的に読んでみたが、日本人を非難する記述はみあたらなかった」とある。
    • なお、「1997年の調査で、ビーズリーと細野が別の救命ボートに乗っていたという調査報告」は、ほぼ事実だと考えられる。
    • 「細野を非難した日本の教科書」も発見されなかった。安藤は、日本有数の教科書図書館である「東書文庫」で、当時の教科書をしらみつぶしに見たが、細野を批判しているものは、みつからなかった。また、図書館職員に尋ねると「以前もそういう問い合わせがあって、調べたのだが、みつからなかった」という回答だった。唯一みつかった教科書では、「タイタニック号の沈没」という文章があり、船に残った者たちを褒め称えていたが、細野に関しては「日本人も一人いたが、これが幸いにも助かった。鉄道員の官吏だということである」と、あっさり触れているだけだった。
    • 安藤がさらに国会図書館でしらみつぶしに調べると、1916年に新渡戸稲造が細野を批判した文章、木村毅洞爺丸の事故直後の1954年に、細野を批判した文章がみつかった。つまり、「細野を批判したのは日本人のみ」であり、外国人からは細野は非難されていなかった。なお、新渡戸も木村も、「男性であったのに、甲板から救命ボートに飛び乗る」という、「非武士道的な行動」を非難していた。
    • なお、海外視察を終えたばかりのエリートである細野は、帰国の翌年に鉄道院から免官され、嘱託になっているのは事実である。安藤は推測として、新渡戸や木村のような「非武士道的な行為」という批判が多かったのだろうと、書いている。
    • なお、細野の日記によると、「女・子供優先であるため、自分も死ぬものと覚悟していたが、たまたま、目の前のボートから『2人分の空きがある』と声がかかった。男性が一人飛び込んだため、闇夜だから男女の区別もわからないだろうと、銃で撃たれる覚悟で、自分も続いて飛び移り、助かった」とある。つまり「自分がルール違反を犯している」という自覚が細野にはあった。
    • 『SOSタイタニック号』では、細野が乗船していたとされる10号ボートについて、「婦人から、船底に男が二人いると告げられ、二人をつかまえて、一人をひきずり出すと日本人であった」という記述があるが、他の東洋の国の人間の間違いなのは明白である。また、『タイタニック号の最期』によると、男性生存者は欧米人であっても帰国後、「卑怯者」と非難され、ブルース・イズメイ社長は妻から離婚されている。
    • また、『タイタニック号の最期』によると、「卑怯なまねをしたのは、中国人、日本人、イタリア人、フランス人、アルメニア人だった」という生存者の証言があったことが記載されているが、著者のロードはそれを「疑わしい」と書いており、「”アングロサクソンの勇気”という偏見が、この事故により姿を消した」と書いている。つまるところ、ロードによる人種差別的な記述は一切ない。
    • また、安藤の取材では、1997年の「産経新聞」の記事は、映画『タイタニック』の話題づくりのために、制作会社FOXから持ち込まれた「美談」であった。あらかじめ映画会社側から結論ができていたため、記者は「一次情報」にあたることなく、「二次情報」と1997年当時の関係者に取材して、記事が書かれた。
なお、細野が救助直後に残した事故の手記はタイタニック号備え付けの便箋に書かれたものであり、沈没後に残された数少ないタイタニックグッズとして第二次世界大戦後に欧米のコレクターの間でかなり評判となったが、細野の遺族は譲渡の申し入れを丁重に断っている。
一等特別室は、6日の航海の費用4,350ドル。
オルゴール
タイタニックにはオーケストリオンと呼ばれるオルゴール(複数の楽器の音を出し、オーケストラの様な演奏を行うオルゴール)を積み込み、使用する予定だったが、製作が出航に間に合わなかった(代わりに楽器奏者が乗ることになった)。タイタニックで使用されるはずだったオーケストリオンは現在、オルゴールの森美術館山梨県富士河口湖町)に展示されている。

沈没後のタイタニック

1985年9月1日、海洋考古学者ボブ・バラード率いるアメリカ海軍の調査団は海底3,650mに沈没したタイタニックを発見した。このとき同軍は沈没した原子力潜水艦スレッシャー (USS Thresher, SSN-593) とスコーピオン (USS Scorpion, SSN-589) の調査が主目的であった。2004年6月、バラードとNOAAはタイタニックの損傷状態を調査する目的で探査プロジェクトを行った。その後、バラードの呼びかけにより「タイタニック国際保護条約」がまとまり、同年6月18日、アメリカ合衆国が条約に署名した。この条約はタイタニックを保存対象に指定し、遺物の劣化を防ぎ、違法な遺品回収行為から守ることを内容としている。

海底のタイタニックは横転などはしておらず、船底を下にして沈んでいる。第三煙突の真下当たりで引き千切れており、海上で船体が2つに折れたという説が初めて確実に立証された。深海はバクテリアの活動が弱い為船体の保存状況は良く、多くの木彫り内装が残っていると思われていたが、運悪くこの地点は他の深海に比べ水温が高い為バクテリアの活動が活発で船の傷みは予想以上であった。

しかし当初船体は叩きつけられるように海底に落下し、船内の備品はもとより甲板の小さな部品や窓ガラス全てが粉々に吹き飛んだと思われていたが、船首部分にはいまだ手摺が残り、航海士室の窓ガラスも完璧な状態で残っていた。また船内にはシャンデリアを始め多くの備品が未だ存在し、Dデッキのダイニングルームには豪華な装飾で飾られた大窓が未だ割れずに何枚も輝いていた。

客室の一室の洗面台に備え付けられていた水差しとコップは沈没時の衝撃や90年以上の腐食に耐え、現在でも沈没前と全く同じ場所に置かれている。この事から船首部分は海底に叩きつけられたのでは無く、船首の先端から滑る様に海底に接地したと思われる。一方船尾部分は海底に叩きつけられ、大きく吹き飛び見る影も無い。なお、現在のタイタニックは鉄を消費するバクテリアにより既に鉄材の20%が酸化され、2100年頃までに崩壊消滅する見込みである。

陰謀説

「船を所有していたホワイト・スター・ライン社が財政難になっており、タイタニックの保険金を得るために故意に沈めた」とする「陰謀説」がある。

説の「根拠」として、タイタニック号を管理していたのはホワイト・スター・ライン社であったが、その事実上の所有者はホワイト・スター・ライン社に出資していた国際海運商事の社長であるJ・P・モーガンであった。そのモーガンはタイタニック号のスイートルームに乗船予定だったが、直前に病気を理由にキャンセルし、代わりに別の大富豪の夫妻が乗船することになったがこの夫妻もキャンセルし、結局ホワイト・スター・ライン社の社長であるブルース・イズメイ氏がこの部屋に収まった。しかし病気のはずのモーガンは、同時期に北アフリカからフランスにかけて旅行をしていたことが後になって判明しており、イタリアでは愛人にも会っている。 しかもキャンセルした客の中にモーガンと非常に深いつながりがある人々が数名いることも判明しているため、「モーガンはこの処女航海中に何か起こることを知っていたのではないか」とするものである。

また、モーガンはタイタニック号で運ぶはずだった私的な貨物も、直前に運ぶことをキャンセルしている(「タイタニック号は沈められた」より)。しかし本人が乗船をキャンセルしたこともあり、それに伴い私的な貨物を同時にキャンセルするのは当然であるという意見もある。また、乗船キャンセルの原因となった「旅行」の目的自体が何であったかは明らかになっていない上、上記のように、この事故はスピード記録の達成を狙ったスミス船長の無理な運航と見張りの不徹底による予知しようのないものであったことから、この「説」は「陰謀説」の域を出ないものである。なお、タイタニック号への乗船を直前にキャンセルしたのは50人を越すとされているが、これを証明するものはない。

ミイラの呪い説

他にも「運んでいたミイラによる呪い説」も有名である
1910年、エジプトで盗掘者たちがピラミッド内部からアモン・ラー神殿の王女のミイラを盗んだ。 ミイラの盗掘中に盗掘者のひとりは急死した。 そのミイラを盗掘者はイギリスの学者に売った。 するとミイラを売った盗掘者はその日の夜に急死。 ミイラを買ったイギリスの学者は3日後、狩りに出かけた時に銃が暴発し大怪我。 さらに、ミイラを持ってイギリスに帰る途中、同行した2名が急死。 そして、ミイラのを扱ったエジプト人2名も謎の死を遂げる。 学者は恐怖を感じ、棺を富豪の夫人に渡した。 すると、夫人の母が突然死。夫人は恐怖を感じ、大英博物館に寄付する。 展示されたミイラの写真をとろうとしたカメラマンは急死。 展覧会を企画した学者もその日の夜にベッドで急死。 その頃、ニューヨークの博物館がミイラが欲しいと要求してきました。 そして、イギリスサザンプトン港からニューヨークへ輸送するため、タイタニック号に載せることになった。 しかしミイラは不沈のはずのタイタニックとともに大西洋に沈んでしまった。 その後、ミイラは海から引き上げられ、今は大英博物館に保管されている。

生存した船員が『船長はいつもと違い氷山の警告を無視した。性格も変貌し、船のスピードアップに躍起だった』と「スミス船長に異常があった」と証言しているが、これについては「ミイラの呪い」との関連性を証明するものは何もない上、スミス船長の態度がいつもとは違うのは、「処女航海で大西洋横断のスピード記録(ブルーリボン賞)を出すためであった」という説が有力である。 (しかし、ホワイト・スター・ライン社は、スピード航海よりゆったりと豪華な海の旅を推す会社であったので、スピード記録を出すためだという説も、怪しいとされている。)

乗組員

乗客

参考文献

  • 『タイタニック号の最期』 ウォルター・ロード佐藤亮一訳 タイタニックに関する決定的なノンフィクションであるとされる。
  • 『不沈 タイタニック—悲劇までの全記録』ダニエル・アレン バトラー著 悲劇の詳細を膨大な資料をもとに再現したノンフィクション
  • 『タイタニックは沈められた』(ロビン・ガーディナー、ダン・ヴァンダー・ヴァット) タイタニックが遭難したのは保険金詐欺を狙いにした陰謀だという説[1]
  • 「なぜタイタニックは沈められたのか」(ロビン・ガーディナー)
  • 「海の奇談」(庄司浅水) この中の巨船「タイタニック」号の遭難の項で、細野氏のことにも言及しさらに船の乗組員が助かったことに関し、ロビン・ガーディナーと似通ったするどい指摘と考察を述べている

関連項目

外部リンク

Template:Link FA Template:Link FA Template:Link FA Template:Link FA

Template:Link FA

');